2015年6月から3年4カ月もの間シリアの武装組織に拘束され、2018年10月にようやく開放され帰国を果たしたジャーナリストの安田純平さん。6/19には「最後の調停官」の異名を取る国際交渉人の島田久仁彦さんとの公開対談を控える安田さんですが、今回はメルマガ『安田純平の死んでも書きたい話』より、謎の組織に拘束され10日目を迎え日に日に絶望感を募らす様子が描かれた当時の日記の一部を特別公開します。(本文内、※の部分は本人による注釈)
隣の民家に手紙を投げ込む作戦を考える
【2015年7月1日(水曜日)】=拘束9日目
ついに7月。本当に帰れるのか。
通訳は「なぜ日本はアメリカにたくさん殺されたのに仲良くしているのか」と言った。それを言い続けたらお互いに殺し合うしかないのだ。
その感覚で取引しているとしたら、早くまとめようなどという気はさらさらなく、何カ月でも何年でも続けるだろう。アハラルだってそうそう応じられるわけがない。おそらくありえないほどのものを要求しているはずだ。
やはりどこかで逃げるしかないのか。ここは隣が民家で子どもやニワトリ、アヒルの声がして和ませてくれるが、時間かかるようなら一か八かで民家に手紙を投げ入れるか、大人に来てもらってアハラルに連絡してもらい、襲撃してもらうしかないのでないか。
どうやって大人に窓際まで来てもらうか。紙飛行機を飛ばして隣に気づいてもらうとしても、ここの連中に通報されたらアウトだし、騒がれても駄目。
「来てもらう」と書くのは俺には無理なので「直接アハラルに連絡して」と書くか。「人に話すと殺される」と書かないといけないが、どうやって書くか。ダイシュ(IS)と同じ連中、話すな、と書けばよいか。
※ アラビア語の文章はフスハー(正則アラビア語)で書かなければならないため、アンミーヤ(方言)で口語で意思を伝えるのとは難しさの次元が違う。(筆者注、以下同)
昨夜、通訳はオレがペプシの缶の上フタを開けるのに取った上部の破片を持ってきて、「なんでこれを作った」と言い出す。
「だからトイレ行けないからトイレ作ったと言っただろう」と言ったが、「セキュリティの連中が、これで我々か自分に何かしようとしたのだ、と言っている。もうペプシはやるなと言われた」という。
トイレ行かせてくれないから仕方なくやったのに、床にでもすればよかったのか。もう通訳は近づいてこないかもしれない。もっとももう頼むことないかもしれないが、必要なアラビア語を教わる必要がある。
窓の柵の隙間に手を少し入れてみたが、目の前の塀を越えさせるのは難しそうだ。腕を縦に振らないといけないので、柵の向こうの雨戸の下の隙間から手を出して飛ばすのは無理な気がする。
※ 窓の外に金属製の縦の柵があり、間隔は10センチほど。そのさらに外側にシャッターが上から降ろされていて、完全に閉めずに窓の下から10センチほどが開けられていた。柵とシャッターの隙間から腕を外に出し、隣の民家との間の高さ2メートルほどの塀を超えるように物を投げなければならない。
隣の塀までの距離が3~4メートルあるので、手首のスナップだけで物を飛ばすのは無理で、柵とシャッターの隙間から肘までを外に出して前腕を振って投げる必要があった。しかし、柵の隙間が狭いので腕を横にすると上腕二頭筋が引っかかって通らないため、私の腕の場合は前腕を立てるようにしなければ肘まで外にだすことはできなかった。