インフルエンザ新薬「ゾフルーザ」塩野義製薬が誕生させた秘話

 

老舗製薬メーカーを変えた「手代木マジック」

塩野義製薬の創業は1878年。社名は創業者・塩野義三郎の名前からとった。その後、製薬会社の御三家の一つにも数えられたが、1990年代には「既存品の売り上げは伸びず、売り方は古臭い、海外にも行けない。時代に取り残された感がすごく強かった」(前出・山口さん)という状態に陥った。

研究といっても、論文を作るばかりで新薬は出せない。研究所は「塩野義大学」と揶揄された。当の研究者も「会社に入って、薬の研究をしていたら恥ずかしい。研究は論文を書くことで、薬の研究は能力のない人がするものと思っていたんです」(加藤晃)と、当時を振り返る。

「それはもう危機感そのものでした。ものをつくらないとこの会社は絶対に潰れると思っていたので、まず会社の形を『製薬会社』にしよう、と」(手代木)

1999年、39歳の若さで経営企画部長に抜擢された手代木は、当時の社長と二人三脚で改革に着手。マジックと呼ばれる手腕を発揮する。

まず手代木がやったのは、卸し業など医薬品以外の事業の売却だった。総売り上げが半減するほどの荒療治。その上で新薬の研究領域を絞り込み、30近くあった領域を感染症など、三つにしたのだ。

当時、製薬研究のトレンドとなっていた抗がん剤のチームも解体。当然、猛反発が起きたが、手代木が「我々の抗がん剤のチームは20人。世界の巨大製薬会社は1000人のチームで研究に当たっています。それでどうやって勝つのか、論理的に説明して下さい」と言うと、研究者達は押し黙るしかなかった。

資源を競争力のあるところに振り分け、勝てる確率を増やそう、と。実際、『だったら』と言って会社をお辞めになる方もおられました」(手代木)

塩野義製薬_03

会社を去ることになった仲間から、手代木は直接こんな言葉を投げかけられた。「わかった。でも俺は塩野義の株は売らないからな。俺らが去ることで、塩野義をもっといい会社にするんだろ? だったら株価、上がるよな」

去りゆく仲間の重みを感じながら、手代木は断固たる改革を進めた。すると、嘘のように新しい薬が続々と誕生する

「薬というのは確率論から生まれるものだと思っていたのですが、そうではなくて、計画して戦略的につくるものだと分かった。そういう結果を見て、だんだん気持ちが変わったというか、薬をつくることがやりがいになったんです」(前出・加藤)

もうひとつの手代木マジックは、「特許切れ」の危機を回避したこと。2010年代前半、塩野義の売り上げを支えていたのが「クレストール」という高コレステロール血症治療薬だった。販売権などをイギリスのアストラゼネカに譲渡し、年間600億円という莫大な特許料、いわゆるロイヤルティー収入を得ていた。

ただし、薬の特許は基本20年。「クレストール」は最大市場のアメリカで2016年に特許が切れる。その時期が迫り、「利益が、特許が切れることでほぼゼロになってしまう。何かしないと会社が危ない、と」(手代木)。

そこで手代木はアストラゼネカに前代未聞の交渉を行う。ロイヤルティーを減額する代りに受け取り期間を延長する契約を持ちかけ、実現させたのだ。結果、売り上げの落ち方もなだらかに。これで余裕が生まれ、「ゾフルーザ」の開発に繋がっていくのだ。

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