毒親からの呪縛を完全に断ち切る方法、あるいは復讐という名の幸福論

 

「親孝行」の定義を変えて、自分の人生を切り拓く

「親を捨てる」ことは「親への感謝」を捨てることでは必ずしもありません。

親だって聖人君子ではなく1人の人間です。長所もあれば短所もある。その長所短所も、子の価値観や性格によっては逆に映ることもあるでしょう。だからいろんな親子関係があるし、あっていい。それは他人に決められることではありません。

だから、「親には感謝しなきゃ」と思うならすればいい。親への感謝は捨てず、親とのかかわりだけを捨てるのです。当然ながら「とても感謝なんてできない」なら感謝しなくていい。絶縁したということで切り捨てればいい。

そして、親孝行の定義も少し変えてみましょう。親孝行を「親を喜ばせる行為・恩返しをする」「親が喜ぶような人間になる」ことではなく、「自分が満足する生き方をする」「自分の力で幸せを掴める人間になる」ことに変えるのです。

普通の親なら誰でも子に幸せになってほしいと考えます。しかしそれは親が考える幸せの形ではなく、子ども自身の価値観に基づく幸せですから、親のそれとは違う。

親が「わが子は成功者だ」と思っても、本人が満足していなければそれは成功ではない。逆に親が子を見て「なんとかわいそうな」と思っても、本人が納得していればそれは成功しているということ。

ただし、毒親は子に幸せになってほしくありません。子が幸せになることはガマンできません。むしろ自分と同じような不幸になってほしい、自分の踏み台になってほしいという潜在的な願望を持っていることさえあります。

だから毒親に「おまえはなんて親不孝な子だ」と言われたとしたら、それは自分の幸福を自分で掴もうとしているからそう映るのです。親と離れることで穏やかな生活を手に入れられたとしたら、「いやあ、自分はいま幸せだから究極の親孝行してるわ」と割り切ってしまえばよいのです。

長い年月の内省が人間を変えることもある

そして、時間が解決してくれる(かもしれない)のを待つ。

これは親友をイメージすればわかりやすいと思います。親友とは、たとえ学校を卒業して別々の人生を歩んでいても、ときどき思い出しては「元気にしてるかなあ」などと遠くにいても想いを持ち続けたり、何年も離れて久しぶりに会っても会話に花が咲く。あのような感じです。

だからもしかしたら、十数年、あるいは数十年経って久しぶりに親に連絡したら、あるいは親元を訪ねてみたら、当時の毒はすっかり抜けて、ただの年老いた親となって再会を喜んでくれるかもしれません。

親自身も、我が子が去ってからの長い長い孤独な生活の中で、自分を見つめ直し、子への接し方や自身の生き方を顧みて、変わっている可能性があるからです。

反対に、もし「今さらふざけるな!」「お金をよこせ!」などと怒鳴ってくるようなら、もう二度と会う価値はないという試金石にもなるでしょう。

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