報復が報復を呼ぶ悪循環。9.11と湾岸戦争を招いた米ブッシュ父子の罪と罰

 

ブッシュ親子が米国を誤らせた

ジョンソンが言うように、ビン・ラーディンは「80年代にソ連に対抗するアフガニスタンの反乱軍を米国が組織したとき重要な役割を果たした」。少し詳しく言うと、79年にソ連軍のアフガニスタン侵攻が始まり、それに対抗するイスラム・ゲリラとの泥沼の戦争が始まった。冷戦さなかでは敵の敵は味方というのは当たり前で、すでにカーター政権の時代から米CIAはパキスタンの国家情報機関と連携してアフガン・ゲリラへの支援を始めていたが、81年にレーガン政権が発足し、ブッシュ父が副大統領兼ホワイトハウスの危機管理センターの責任者となると、ブッシュ父とそのCIA長官時代(76~77年)の部下だったケーシー現CIA長官とのコンビで、ゲリラへの援助を大々的に拡充した。

当時、ゲリラは世界中のイスラム国から資金と義勇兵の提供を受けていて、その中でもサウジ王家の名代としてアフガンに乗り込んだビン・ラーディンは特別に目立つ存在で、やがて米CIAとの協力関係が築かれる。CIAとパキスタンはゲリラの戦闘訓練を行う学校をビン・ラーディンに作らせ、彼をその校長に据えた。その学校の名が「アル・カイーダ」。つまり後にテロ組織ネットワークに発展して9.11を引き起こすアル・カイーダはブッシュ父とビン・ラーディンとの合作物なのである。

この時期、ブッシュ父とCIAが取り組んでいたもう一つのプロジェクトが「イラン・イラク戦争」だった。79年にホメイニ革命が起きて、53年に米CIAと英諜報部によるクーデターで擁立されたパーレビ国王が放逐されると、そこからイスラム原理主義の影響が広がって中東の石油利権が脅かされることを恐れた米国は、隣国イラクのサダム・フセイン政権に莫大な資金と兵器と技術を注いでイランと戦争するよう仕向けた。88年に引き分けのような形で戦争は終わるが、その間、ブッシュ父とサダムはいわば“戦友”だった。そのブッシュ父が翌89年に大統領に就くとサダムはクウェート奪還の好機到来と見て、クウェート侵攻に打って出た。そこには、元々はイラクの一部であったクウェートを取り戻そうとしても戦友のブッシュは黙認してくれるだろうとの大甘の読みがあった。

ところがブッシュ父の反応は正反対で、戦友だったから甘い態度をとったと言われるのが嫌で、「サダムがサウジの油田をも狙って南進しようとしている」との仮想を立て、サウジに米軍を中心とする多国籍軍延50万を派遣するという過剰反応に出た。その時、アフガンでの任務を終えてサウジに帰国していたビン・ラーディンは、聖地のある国土を白人キリスト教徒の軍隊が踏みにじるのを許すことができず、この時から反米テロリストに転じるのである。

ジョンソンが言う「報復が報復を呼ぶ悪循環」とはまさにこういうことで、9.11も湾岸戦争も元はと言えばブッシュ父の手連手管が招いた自業自得なのである。そしてブッシュ子は、この父親の撒いた災禍に対するにアフガンとイラクでの戦争を発動し、世界を無茶苦茶にしたのである。

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