また違う形の最適化もある。攻撃されないよう、相手に忖度し、迎合するよう言動を変化させるという最適化である。先の攻撃型を硬派な最適化とすれば、こちらは軟派な最適化といえる。例えば「失敗すると叱られる」という経験を多く積んだ子どもであれば、常に「お利口」であろうとする。そうすれば身を守れる。子どもに限らず、大人社会でもよくある話である。
各集団の中でも最適化は行われる。集団の中に強い者がいて、自分があまり出しゃばるとやられるようであれば、大人しくふるまう。兄弟で自分の意見が通る立場にあれば強く出るし、「お兄(姉)ちゃんなんだから」と親に言われるようであれば、我慢せざるを得ない。集団の中で最適なペルソナを付け替えて被っているだけであり、本人の性格がどうこうとは一概に言えない。
小さな頃から、人に会うたびに微笑みかけられ、抱かれ、愛され大切にされていれば、心のコップは上向きになる。人に会えば喜んで近づき、人からの愛を受け取って溜めていけるようになる。この世を安全な場、良い人たちの住む場と見るようになる。
ただ単純に、どちらがいい悪いとはいえない。あくまでも最適化である。
警戒心をもっていれば、愛を受け取れない代わりに、危険な目に遭うことは少なくなる。無警戒の場合、悪意をもった人間に簡単に捕まえられてしまうリスクが生じる。
オープンに人を信用していれば、あらゆるメリットを享受できるが、騙されるリスクは高まる。閉じている場合、せっかくの愛情やいいオファーも断ることになり、チャンスを逃す一方で、リスクは抱えないで済む。
同じ人でも、場によって行動は変わる。賢明な人なら、危険な場であればオープンにせずに警戒するし、安全と認識すれば心を開く。分別ない人であれば、全てを安全と妄信し受け入れてしまい、あるいは全てを危険物とみなし、攻撃する。
毒か薬かの見分けは必要である。
人は環境に最適化する。だから学級が荒れていれば、閉じるようになる。良い場であれば、開く。それが集団で生き延びる上での最適化である。
子どもは場に最適化する。だから子ども自身に見える問題を直接どうこうするだけでは足りない。その集団(学校・職場・家庭)内が安全で開ける場であるかどうかは決定的に重要である。
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