「大事なときに叫ぶことこそ、わたくしは本当の雄弁ではないか」と語りながら、国会の証人喚問を回避すべく奔走した逸話をもつ創価学会名誉会長の池田大作氏が亡くなりました。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』で評論家の佐高さんは、身内である当時の公明党書記長からも批判された池田氏が足元にも及ばない宗教家として、大本(教)の出口王仁三郎氏を紹介。天皇制ファシズムによる酷い弾圧を受けながら発した金言至言を伝えています。
池田大作と出口王仁三郎
池田大作の創価学会学生部主催の全日本学生弁論大会での発言が1959年10月23日付の『聖教新聞』に載っている。
「3,4年前、立正佼成会の庭野日敬が国会に召喚されていろいろ調べられたことがある。このとき、会長先生(戸田城聖第代会長)はニッコリ笑って『こっちへくればちょうどいい、このときこそ立正安国論を叫びたい』と申しておられました。大事なときに叫ぶことこそ、わたくしは本当の雄弁ではないかと思うんです」
こう言っておきながら、池田は言論出版妨害事件が問題になるや、国会での証人喚問を嫌がって逃げまわり、公明党の当時の書記長の矢野絢也に「何とかしろ」と無理を言った。
矢野は『私が愛した池田大作』(講談社)で皮肉っぽく冒頭の発言を引き、こう指摘している。
「実に堂々としたものである。ところが、これは強がり、虚言に終わった。池田氏は『俺を守れ』と喚いているだけなのだ」
こんな池田を私は「宗教家にあらず」と断罪したが、対照的なのは大本(教)の出口王仁三郎だった。エスペラントのスポンサーでもある大本の本拠地である綾部と亀岡に、私は日本エスペラント大会の講演で行ったことがある。
戦中の天皇制ファシズムの下、この2つの本部は21日間で1,500発以上のダイナマイトを使って徹底的に破壊された。教主は代々女性がなるということと、その国際性が天皇制国家とは相容れなかったからだろう。
驚くのは、戦後、その損害賠償を国家に求めなかったことである。早瀬圭一著『大本襲撃』(毎日新聞社)によれば、王仁三郎はこう言ったという。
「政府に賠償を要求しても出る金はみな国民の税金から取ることになるんや。いま日本人は敗戦の苦しみから立ち直ろうと懸命に努力している。そのときに、私どもが、国民の血と汗の結晶である税金を自分のものにもらうことはできない。この災難は神さまの摂理であると思っている」
王仁三郎はちょっと破格の人物だった。私は小学館の編集者に頼まれて『新・代表的日本人』(小学館文庫)を編んだことがある。内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)をもじった企画だが、幸徳秋水や与謝野晶子、石橋湛山らと共に大宅壮一の書いた王仁三郎を選んだ。
スケールの大きい宗教家として池田は王仁三郎の足もとにも及ばない。王仁三郎は本殿等を壊された時にもこう言っている。
「有難いことじゃ。あの建物を残しておかれたら無暗に税金がかかり、信者も税金支払いのために、どんな苦痛をなめなければならんか分からん。真正の宗教は人の心にうちに燈火をつけていけばよいのじゃ。こんな時世に殿堂を持っていても、田にしの殻と同じことで、厄介なだけで何にもなりはせん。要らんときには神様の方でちゃんと取りこわしてくださったのだ」
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