各メディアの調査で、次期首相候補として国民から最も支持を受けるのが自民党の石破茂氏です。以前掲載した記事「人気トップの石破茂氏を疎外。国民が自民党を見放した方がいい理由」で、石破氏と対談し決起を促したと明かした評論家の佐高信さん。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、そんな石破氏も尊敬しているという石橋湛山元首相の言動を紹介。自由主義者ではあっても吉田茂元首相のような反共主義者ではなく、党内で孤立していても独りで走り始める「改革者」だったと、石破氏に対して決起を再度求めるかのように伝えています。
単騎出陣の石橋湛山
石破茂と『ZAITEN』3月号で対談して決起を呼びかけた時、彼は「情けあるなら今月今宵、一夜明ければ皆が来る」か、と言った。
情けはこの場合むしろ志と表現した方がいいだろう。状況を切り拓こうとして立ち上がった時に志のある者は危険を冒して行を共にする。大勢が決まったら、みんな同調して雪崩れを打つといった意味である。自民党の「常識」に逆らって、社会の「常識」を主張している石破の孤独感が伝わってくる述懐だった。
石破も尊敬するという石橋湛山は単騎出陣型の政治家だった。とにかく独りで走り始める。いや、独りでも走り始める。同調する者を当てにして、じっと待っていたりはしないのである。改革者という者はそういう者であり、いまの自民党に必要なのは「改革者」というより「解体者」である。
いまから、およそ半世紀前に『自民党解体論』を出した田中秀征は『日本リベラルと石橋湛山』(講談社)の冒頭に、1945年8月15日正午に終戦の天皇の放送があった後、午後3時に湛山が「新しい日本の前途は、実に洋々たるものがあります」と語った、と書いている。
湛山は秋田県横手市に疎開して、そこに東洋経済新報社の支局を置いていたが、集まった人たちを前に、明るく元気にこう述べたという。そして、聴衆を唖然とさせた。敗戦にうちひしがれている多くの国民と違って、天皇制ファシズムと誰よりも激しく闘った湛山は、これからは再建だと思っていたのだろう。
湛山の孫弟子を自任する秀征は「湛山は戦争に最大限の警鐘を鳴らしたが、反戦活動をしたわけではない」と書いている。「早く戦争が終わればいい」とは思っていたが、「負ければいい」とは思っていなかった。それで次男の和彦が戦死した時、その追悼の席で、「私はかねて自由主義者である為に軍部及び其の一味から迫害を受け、東洋経済新報も常に風前の灯の如き危険にさらされている。併しその私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者であるが、国家に対する反逆者ではないからである」と述べた。
日清、日露と戦争に勝った不幸ということを考えている私とは少なからず違うが、湛山と吉田茂の違いを指摘した秀征の次の比較が興味深かった。「湛山は社会主義や共産主義に対する偏見がなかったから、社会主義者に対して吉田は頑迷と言えるほどの反共主義者であったから、同じく自由主義者といっても、そこには間口の広さにかなりの隔たりもあった」
吉田学校の優等生の佐藤栄作の派閥を福田赳夫が引き継ぎ、そして、岸信介の孫の安倍晋三が率いた清和会につながった。その安倍派が反共ということで統一教会と結びつき、現在の腐敗状況をもたらした。
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