6千人のユダヤ人を救った杉原千畝と難民を温かく迎えた誇るべき日本

 

動乱の欧州へ

杉原のソ連派遣を諦めた外務省は、かわりに1937年8月、在フィンランド公使館への在勤を命じた。フィンランドもソ連の近隣国であり、対ソ諜報活動には重要な国であった。

同年11月、日本はドイツとの日独防共協定を結んだ。「防共」とは共産主義からの共同防衛である。当時の日本は、ソ連共産主義をもっとも警戒していたのである。

杉原は約2年間、フィンランドに駐在したが、その間、ドイツによるオーストリア併合、チェコスロバキアの解体、ユダヤ人迫害事件が起こり、欧州の戦乱が近づいていた。

フィンランドに2年駐在した後、杉原は1939年7月、リトアニアの首都カウナスに領事館を開設し、領事代理として赴任することを命ぜられた。実は同じ日に、杉原を含む5人の対ソ情報を専門とする外交官がソ連、バルト3国、ポーランドに派遣されている。

ソ連は日独から挟撃されることを恐れて、ドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。ヒトラーとスターリンの2人の独裁者の野合であった。平沼内閣は「欧州の情勢複雑怪奇なり」の声明を出して総辞職した。

こういう「複雑怪奇」な欧州情勢に関する情報収集を狙いとして、ソ連およびその周辺国に外務省の精鋭が送り出された。その1人が杉原だったのである。

リトアニアに亡命したポーランド系ユダヤ人

杉原がカウナスに到着して1ヶ月後、ポーランドは独ソに分割占領された。ポーランドは300~400万という欧州最大のユダヤ人人口を抱えていた。

ロシアでも歴史的にユダヤ人排斥が根強く、ロシア語で「ポグロム」と呼ばれる集団的な殺戮、略奪行為が繰り返されていた。ポーランド在住ユダヤ人の多くが隣の中立国リトアニアに逃げ込んだのも当然と言える。

ソ連は独ソ不可侵条約の秘密事項に基づき、さらにフィンランドとバルト三国に触手を伸ばし始める。リトアニアがソ連に併合されるのも、時間の問題だと考えられていた。杉原が着任したカウナスはこういう状態だった。

杉原はある商店で買い物をしていた際に、その店の女主人の甥ソリーと出会った。ソリーの家はユダヤ人で、ポーランドから逃げてきたローゼンプラット親子をかくまっていた。杉原はソリー少年の招待に応じて、ユダヤ民族の宗教儀式に参加し、その後、ローゼンプラッツからポーランドの状況を聞き出した

リトアニアにはポーランド軍の情報将校などが潜んでいて、ロンドンのポーランド亡命政府のための諜報活動をしていた。彼らと親交を結ぶことが、杉原の諜報網構築の糸口であった。

そもそも、日本とポーランドは、日露戦争の時にロシアの属領だったポーランドの独立運動を支援した時から親交が始まっており、ソ連成立後もシベリアに流刑となったポーランド人独立運動家の孤児たち765名を日本が救った行為も深く感謝されていた。

ソリー少年の招待に応じたのも、こうした背景からであった。杉原はソリー少年の一家やローゼンプラッツから情報を得つつも、早くリトアニアから脱出するよう勧めた。ロシアのやり口を見通していたのである。

ソ連はフィンランドとの冬戦争が片付いた翌年春から、バルト三国に牙を剥き始めた。翌1940年7月17日、反ソ派の政治家を逮捕した上で、リトアニア共産党員だけが立候補を許された総選挙が行われ、成立した傀儡政府はリトアニアのソ連への編入を請願した。8月3日、ソ連はリトアニアの加盟を認めた。

杉原の苦心

総選挙の直後から、日本通過ビザを求めて、大勢のユダヤ難民が領事館を囲み始めた。ソ連による併合とその後のユダヤ人虐待が目に見えていたからである。

ここから杉原がユダヤ難民たちにビザ発給を始めるのだが、その情景は過去に記したので、繰り返さない。ただ、そのビザ発給にも杉原の諜報外交官としての手腕が十二分に発揮されていた点を見ておこう。

そもそも日本の通過ビザ発給には、行き先の入国許可と十分な旅費を持っていることが必要条件だと「外国人入国令」で定められていた。これを厳格に守っていたのでは、ユダヤ難民たちのほとんどにビザは出せない。

一方、一外交官が法律を無視して不正なビザを発給したとあっては、シベリア横断後に日本への入国を拒否されるユダヤ難民が犠牲となる。行き先も定かでなく、金も持たないユダヤ難民に大量にビザを発給しながら、いかに「外国人入国令をぎりぎりで護っているふりをするか、ここが杉原の苦心のしどころだった。

杉原がとった一手は「本査証(ビザ)は、ウラジオストックから日本行きの船に乗るまでに行き先国の入国許可をとりつけること、日本から出国する際の乗船券の手配を完了することを約束したので交付した」とわざわざスタンプまで作らせて、ビザに記載していることだ。

杉原ビザを持ったユダヤ難民が続々と日本に到着し始めると、外務省からは現地が対応に困っているので、「以後は」厳重にビザ発給の規則を守るように、という電報が8月16日に来た。「以後は」ということは、「それまでに発給したビザはやむなく有効と認める」ということである。

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