松下電器は人を作っている。松下幸之助が社員と乗り越えた6つの逆境

 

世界大恐慌の試練

昭和4(1929)年3月、幸之助は松下電気器具製作所を「松下電器製作所」と改称し、創業10年間の歩みを振り返って企業使命を述べた綱領と、全従業員の進むべき道を説いた信条を制定した(原文はカタカナ書き)。

綱領

営利と社会正義の調和に念慮し国家産業の発展を図り社会生活の改善と向上を期す

 

信条

向上発展は各員の和親協力を得るにあらされは難し各員自我を捨て互譲の精神を以て一致協力店務に服すること

すぐに、この綱領と信条を試される試練がやってきた。この年の10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界大恐慌は、日本経済も痛撃し、巷には首切り、人員整理の嵐が吹き荒れ、失業者が街にあふれた。次々と新工場を設立していた松下の売り上げもぴたりととまった。12月の半ばには出荷がほとんどなくなり、連日生産される製品で倉庫は充満し、工場の土間一杯に積み上げられた。井植は療養中の幸之助に情況を説明し、ひとまず従業員を半減して窮状を打開するしかない、と訴えた。

「大将、おおきに、おおきに」

幸之助も思案に暮れたが、腹をくくってみると打開策が閃いた。

明日から工場は半日勤務にして生産は半減、しかし、従業員には日給の全額を支給する。そのかわり店員は休日を返上し、ストックの販売に全力を傾注すること。…半日分の工賃の損失ぐらい、長い目ぇでみれば一時的の損失で大した問題やない。それよりも採用して仕事に馴染んだ従業員を解雇して、松下工場への信頼にヒビが入る方が辛いのや。

翌日、井植が工員や店員を集めて幸之助の決断を伝えた。いよいよ首切りかと覚悟していた所に、思いも寄らぬ話で皆「うわっ」と躍り上がった。店員たちは鞄に商品見本を詰め込んで、「さあ、売りまくりじゃあ!」と市中に飛びだしていった。販売は心意気である。2ヶ月後には在庫の山がきれいに消え、半日待機をしていた工員たちもふたたびフル操業を開始した。

半年ほどして、療養していた幸之助が各工場を見回りにくると、その姿を見つけた工員が「ひゃあ、大将!」と声をあげた。「大将、おおきに、おおきに」と涙を流す女工、「お帰りやす、大将!」と拍手で迎える従業員。幸之助は思った。

やっと病癒えて出勤し、新たに建設された第5工場、第6工場を見に行き、元気で張り切ってやっているさまをみて、かつて味わったことのない感激にひたったことであった。そして産業報国という信念が湧然と感謝のうちに生まれたのであった。

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