砲火は交えど海軍の義は守る。伊東長官と丁提督、日清武士道物語

 

「伊東よ、もうよい」

2月17日朝、連合艦隊が威海衛に入港した。かつて軍艦22隻、総排水量5万トン強を誇った北洋艦隊は、すでに10隻1万5,000トンしか残っておらず、それらがすべて連合艦隊に引き渡される。

その日の夕刻、これら残存艦の間から、大型輸送船が抜け出した。丁提督の柩を乗せた康済号」であった。連合艦隊の全将士が舷側に並んで敬礼をする登舷礼式で「康済号」を見送った。「松島」後方の主砲が弔砲を撃った。ゆっくり前を進む「康済号にむかって伊東も荘重な敬礼を送った

一夜明けて、清国は休戦会議の開催を申し入れてきた。ここに日清戦争はようやく幕を下ろそうとしていた。

2月27日、伊東は帰朝を命ぜられ、3月3日に広島宇品港に着くと、すぐに「広島大本営」に向かった。「大本営」とは言っても、粗末な木造2階建てで、明治天皇は前線将兵の労苦を偲ばれて、その一室に起居されていた。

伊東は天皇に対し、戦闘経過を伝える軍令状を淡々と読み上げ、それが終わると、自分個人の判断で「康済号」を交付した事に触れた。天皇は、よく分かっているというように、「伊東よもうよいと言われた。伊東の処置に十分満足されているようだった。

すでに2月22日付け『東京日日新聞』には、伊東と丁の間に交わされた計4通の文書が全文掲載されていた。天皇と海軍首脳は、伊東の処置を日本武士道に適ったものとして高く評価し、公表に踏み切っていたのである。伊東の丁汝昌への礼節はタイムズ紙にも報道され世界を驚かせた

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

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著者/伊勢雅臣
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