これはまた別の問題があります。日本文化には「ウチ」すなわち身内という概念と、「ソト」すなわち外部という概念があり、その間には分厚い壁が立ちはだかっています。
人種ということでは、例えばですが、お笑いのショーに本物のアフリカ系アメリカ人が出てきてしまっては、「完全にソトの人」ということになってしまいます。ソトの人というのは、それ自体が非日常的な属性ですから、「日常性の中にズラしとしての非日常性」を演出するという「お笑い」にはならないわけです。
ですから、中身は日本人で喋りも日本語の人物が、黒塗りでアフリカ系の真似をすると「お笑い」になるというわけです。勿論、人種による身体的特徴を表現の道具にするなどというのは、21世紀の現在では国際的なタブーですから、私としても一切認めるつもりはありませんが、少なくとも、日本の「お笑いのメカニズム」からすれば、このような表現が出てくるのは合理的だし、それで日本の「お笑いはオワコン」ということにはならないと思います。
同じような話は、「ハーフ芸能人」にも言えます。美しい女性、例えば若くて人形のような白人女性が出てくれば、TVの画面が華やかになるかと思うと、そうではないわけです。つまり「ソトの人」を連れてきても、最初から非日常なのですから、面白くも何ともないのです。
ですが、流暢な日本語を喋り、しかも(ここが大事なのですが)欧米系のような顔をしながら低姿勢で「自信ないんですぅ・・・」とか「私、人見知りでぇ・・・」というような「今どきの低姿勢」で喋れるのに、顔は「ハーフ顔で理想的」であると、基本的にその人は「ウチ」のメンバーと認知されて、スタート地点としては日常性が付与されます。その上で、「顔立ちが美しい」という非日常性が初めて認知されるというわけです。
私は、この「ハーフ芸能人」という存在自体が人種差別だと思っていますが、それとは別に、この「ウチとソト」そして「日常と非日常」のメカニズムからすると、外国人ではダメで、ハーフ美女なら歓迎されるというのは、ロジックとしては成立するわけです。
お笑いの話に戻しますと、例えば「イジリ芸」とか「お仕置きの暴力ネタ」なども批判されるわけですが、これも「親近感があるのに露悪的な振る舞いをする」という「異化効果」と、「普通はここまで」なのに「あそこまでやってしまう」という「過剰というズラし」による「異化効果」のメカニズムから「お笑い」として成立してしまっているということがあるわけです。
勿論、ベッキーさんへのキックにしても、ひな壇のお笑いトークにおける「上下関係」とか「いじりキャラ」などというのは、全部がダメだと思いますが、それ以前の問題として、どうして笑いとして成立するのかという点については、立派な(?)メカニズムがあるということは否定できません。
ここで本メルマガのサブテーマとなっている「弱さの研究」という視点を導入してみますと、例えば「日本人は弱さを抱えているので、自分の弱い自尊心を満たすために、外部の人間を差別したり、弱い人間に暴力を振るったりする映像を見て安堵感を得ている」というような解説はどうでしょうか?
私は、この「お笑い」という問題に関しては、この理屈は観察として、評価として間違っていると思います。そうではなくて、「ウチとソト」「日常と非日常」という複雑なメカニズムがそこにはあるのだと思います。
但し、更に俯瞰的に見てみた時に、「ウチ」に対して限りなく甘えていく一方で、「ソト」との交渉や関係性構築への意欲に欠けるカルチャー、あるいは「日常性に閉塞感を感じ」てしまい、無謀な「非日常性」を麻薬のように追い求めるカルチャーには「弱さ」の問題が横たわっているかもしれません。
ですが、「お笑い」という問題に関しては、少なくとも茂木氏の言うような「オワコン」だとか、駒崎氏の言うような「後進国」と言う切り捨て方では済まない、複雑な文化の構造があるように思います。また、とりあえず現象面に関して言えば「弱さ」の問題とも余り関係はないように思います。
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