明治から150年、「近代化」に2度も失敗したニッポンの反省

 

国権主義に対する民権主義の「未発の可能性」

長州と薩摩を中核とするテロリスト集団の軍事クーデターによって、明治国家という国権主義の権化のような体制が生まれて、それは直ちに軍国化し、外に向かっては脱亜化し侵略化す帝国化するという「大日本主義への道を突き進む。

それが必然だったのかと言えばそんなことはなくて、幕末から明治初期の日本は別の可能性も秘めていた。例えば、江戸の民主思想の先駆者として最近注目されているのは、赤松小三郎という上田藩士で、英蘭兵学・砲術・航海術を学び、勝海舟を助け、1867年に「御改正口上書」と題した建白書を幕府に出している(写真3)。

  1. 天皇を長とする行政府「天朝」と上下両院からなる立法府「議政局」を設ける
  2. 下院は門閥貴賤に関わらず「入札(選挙)」で選ぶ
  3. 全国に教育機関を置き国民教育を徹底

──など、公武合体論に立った議論で、それ故に薩摩テロリスト=中村半次郎に67年暗殺された。同じ年に死んだ坂本龍馬より遥かにマトモな思想家だったのに惜しいことをした。

また田中彰『小国主義』(岩波新書、99年刊)によると、明治4年に世界視察のため派遣された岩倉使節団は、米英仏独などの大国ばかりでなく、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、スウェーデンなどの「小国」のありようにもかなり強い関心を寄せ、『米欧回覧実記』と題した報告書でそれなりの頁数を割き、これらの国は小国ながら大国に侮りを受けず信義によって国威を発揚しているので日本としてもっと見倣いたいという趣旨のことを述べている。

しかし、結局のところ岩倉具視は憲法制定を伊藤博文に委ね、国権主義、大日本主義への暴走が始まったので、自由民権的な小国主義は未発の可能性に終わった。その思想は中江兆民や植木枝盛らから、やがて幸徳秋水、吉野作造などを経て、三浦銕太郎、石橋湛山ら大正期の「小日本主義」へ、さらには戦後の鈴木安蔵「憲法研究会」にまで地下水脈となって繋がっているのである。

安倍首相に言わせれば、現憲法はGHQが作った「みっともない憲法」だけれども、それは史実ではなくて、少なくとも鈴木らの憲法案は「GHQの司令とは別の地点からなされた自主的自律的な憲法改正作業」(田中前掲書)であり、そうであるが故にGHQ自身がそれに注目して英文に翻訳しそれを大いに参考にした。鈴木は吉野作造に師事して植木の自由民権憲法案や中江兆民の小国主義を研究した憲法学者であり、その意味では「自由民権期の植木や兆民にみられる小国主義が、日本の大国主義の破産した敗戦後の状況のなかで、憲法研究会案を通してGHQ草案に流れ込みそれが日本国憲法へと結実した」というのが本当なのである。

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