旧民主党から立憲民主党へ
1996年9月に結成された旧民主党の理念・政策論議に参加した時の私の問題意識も、「未だに死に切れない明治に終止符を打つにはリベラルな新党を作るしかない」というものだった。同年8月の討論合宿に提出したチャートがこれで、維新があって早速に国権と民権の抗争が始まって、やがて国権派が民権派を押しつぶして帝国憲法が成り薩長藩閥の大日本主義が始まっていく。大正デモクラシーという揺り戻しもあるけれども、すぐに昭和軍部政治、そして敗戦。GHQ占領下の過渡期の後は自民党一党支配で、そこまで全部が「発展途上国=追いつき追い越せの100年間」だったことが描かれている(写真4)。
この未だに死に切れないでいる発展途上国型の国権主義、大日本主義を終わらせることは、その一部であった自民党には出来るはずがなく、かと言ってその随伴者であった社会党にも無理で、そこにリベラル新党が誕生して途上国ぶりを終わらせ、日本的な成熟市民社会の扉を開くべき必然性があった。
このチャートをベースに書かれた結党の理念文書は、次のようにその基本使命を定義していた。
明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。
それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのために多極分散、水平協働型の「市民中心社会」システムを築き上げなければならない。
いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100 年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。
ところが旧民主党は、1年半ほどで新進党脱党者を続々と迎え入れて歴史観も理念・政策議論もないまま水ぶくれして再結成され、その時点で最初の熱い議論はどこかへ吹き飛んでしまった。それから11年を経てついに政権を獲ったけれども、水ぶくれの悲しさ、わずか3年で投げ出すことになった。それにはいろいろな理由があるけれども、私に言わせれば最大のものは、歴史観に裏付けられた理念・政策の欠如である。ところが同党はさらに混迷を続けて民進党になり、ついには完全に無理念無政策無節操の「希望」との合流という挙に出、「ああこれで民権もリベラルも何も終わりだ」と諦めかけたその瞬間に、立憲民党が立ち現れて「右か左かではない。上からか下からかだ。我々は下からの民主主義をめざす」と宣言したので、辛うじて、自由民権から繋がってきた細い糸が繋がったのである。
民権派、小日本主義の側からの150年を総括をする必要があって、そういう歴史観、文明論を作り上げ国民の間に広げなければ、安倍改憲を政権もろとも葬ることはできないのではないか。
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