【最終回】俺たちはどう死ぬのか? 春日武彦✕穂村弘が語る人間の幸せと不幸せ

 

第15回⑤

「プチ幸福」の知覚問題

春日 「死」について考えるということは、その瞬間じゃなくて、そこに至る過程に思いをめぐらすこと——それが、この連続対談のわりと早い段階で出てきた仮説だったじゃない? 今の話に繋げるなら、つまり自分なりの「幸福(な人生)」を想定できれば、それすなわち「幸福な死」への第一歩になり得るんじゃないかな。

穂村 先生にとっての幸せって、どんなものなの?

春日 俺は、口ではデカイ幸せを求めているけど、実際にそういうことが起こったら、たぶん耐えられないと思う。こんなに良いことがあるということは、次は絶対不幸が待っているに違いない、みたいな発想にどうしてもなってしまう。しかも、その幸福が大きければ大きいほど、不幸のスケールは格段に大きくなるとも思ってて。それが怖いから、基本的には「プチ幸福」くらいがベストかな。

穂村 それは、具体的にはどんなイメージなの?

春日 例えば、ホテイのやきとりの缶詰があるじゃない? あれ、今は違うんだけど、昔は缶にプラスチックのキャップが掛かってて、そこに爪楊枝が2本入ってたんだよね。つまり今ここにあったら、穂村さんと俺とであれを順ぐりにつまみながらワンカップかなんかを飲むわけ。そういう情景を具体的にイメージさせるところに、すごく感動する。1本じゃなくて2本ある楊枝に、いわば人間の善なるものを感じて嬉しくなるの。そういうものの方が、俺にとっては宝くじが当たった! とかより遥かに重要なの。

あるいは、駅から家に帰る途中に3階建てのビルがあるのね。こないだ夜に通りかかったら1、2階はもう真っ暗なんだけど、3階だけ明かりが煌々と灯いていてさ。英会話教室って書いてあって、窓からは、先生と思しき外国人が肩をすくめたり手を振り回したりして、実に大袈裟な手振りで授業をしているのが見えるわけ。それを眺めながら、ああいう不自然なもんも含めて世の中っていうのは回ってるんだな、ということが突然知覚され、なんかすごく腑に落ちるものがあったんだよ。

たぶん、世の中の仕組みが分かったかのような錯覚を起こしているわけだけど、これも俺にとっては一種の幸福なんだよね。こうした、たまに訪れる、小さいけれども肯定的な気持ちとか、小さな納得みたいなものにすがって俺は生きているのよ。

穂村 そんな素朴なものに喜びを見出せるのに、一方ではなんでこんなにアイロニカルなんだろうね?

春日 それは悲しい性でさ(苦笑)。でも、そういう世界のささやかだけど良い面だけ見て暮らしていけたら、今よりずっと楽になると思う。

穂村 爪楊枝2本で思い出したけど、うちの実家には「幸せは洗う茶碗が2つある」って書かれた色紙が壁に貼ってあってさ。もう母は亡くなっていて、父だけしかいないから、それを見るとなんだか悲しくなる。でもさ、こういうのって今は炎上しかねないんだよね。デフォルトで幸せとは「2本」とか「2つ」みたいにすると、「1人の俺にケンカ売ってるのか!」みたいに取る人もいるわけで。

僕らだって、今はパートナーがいるから心に余裕があって、それを幸福の象徴みたいに見ていられるけど、もし妻も友だちも話す相手も1人もいなくて孤独だったら「ふざけんな!」と爪楊枝を折ったりしてるかもしれない。

春日 それは、その通りなんだよね。俺は嵐の晩に猫と一緒にいると、すっごい楽しいのよ。だけど、外では被災している人もいるわけで、そっちからしたらまさに「ふざけんな」だものね。しかし、嵐の中でなんとなく気分的に世の中と隔絶してるような、してないような、その辺の微妙な感じというのがすごく良くてさ。妙に想像力が働いて、行き詰まっていた原稿のアイデアが浮かんできたりする。

穂村 昔、なぜミステリ小説が好きかを説明する時に、先生は似たようなことを言っていたよね。本の中では血みどろの恐ろしいことが起きているけれど、自分はあったかい部屋のソファで猫と戯れながらページをめくってる。目を上げると、本の中の非日常とは真逆の、いつもと同じ世界がそこにある——そのギャップがいい、って。

春日 自分の安全が約束されているからこそ、非現実的な殺戮とかも楽しめるわけだからね。そういうギャップみたいなのも、俺なりの幸福の一形態なのかもしれない。

穂村 ミステリ小説のように、自分に直接被害を及ぼさない「死」に自発的に接近することで、生の意味を確かめるみたいなことってあるよね。僕は時々、飛行機が落ちる時に書かれた遺書とか、雪山に閉じ込められた人が死に至るまでに書いた文章とかを探して読んでしまうんだよね。

内容は、たいてい子ども宛に書かれた「お母さんを大事に」みたいなものなんだけど、みんな名文のように感じられる。そういうの読むと、こうして暖かい部屋でソファに座って猫にチャオチュールやりながら先生と話したりしている、まったく平凡な自分の生が輝かしいもののように思えてくる。でも、そういうふうに死に瀕した人の感覚を借りないと、自分1人では、その「輝かしき平凡」という名の幸せをなかなか実感することができない。

逆に、スーパースターみたいな人を見て「儲かってんだろうな」的なことを考えてしまったり、そういう人がスキャンダルとかに見舞われると「そら見たことか」みたいに思って溜飲を下げたり。普段は、どちらかというと崇高なものに憧れているクセに、放っておくとそんなふうにどんどん心が汚くなっていくのは何故なんだろうね。

第15回①

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