シティ・ポップの空を翔ける“一羽の鳥” 〜作曲家・滝沢洋一が北野武らに遺した名曲と音楽活動の全貌を家族やミュージシャン仲間たちが証言。その知られざる生い立ちと偉大な功績の数々

2021.04.20
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バックバンド「マジカル・シティー」元メンバーが語る滝沢洋一

今までも、そして現在も、滝沢洋一の生い立ちや経歴は多くの謎に包まれている。彼についてはネット上をくまなく探しても極めてわずかな情報しかなく、分かっているのは、以下の項目くらいである。

  • 「1950年3月9日アメリカ生まれ」とされていること
  • 作曲家の村井邦彦氏に才能を見出され、アルファレコードと契約したこと
  • シンガー・ソングライターとして、ソロアルバム1枚と3枚のシングルを出していたこと
  • 多くの歌手やタレントに楽曲を提供していたこと
  • 滝沢のバックバンドが「マジカル・シティー」という名前だったこと

マジカル・シティー」。

今から45年ほど前に、東京出身のミュージシャン4人が集まって結成されたアマチュアバンドである。しかし、そのメンバーは実に豪華だった。

シティ・ポップを象徴する人気曲「プラスティック・ラブ」や「RIDE ON TIME」などのレコーディングに参加し、山下達郎&竹内まりや夫妻の“リズム隊”として長年活躍。数多くの歌謡曲や大物歌手のバックを務めてきたベーシストの伊藤広規氏と、ドラムの青山純氏。

そして「君は1000%」や「時をかける少女」「1986年のマリリン」「雨音はショパンの調べ」「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」など、大ヒット曲のアレンジを多く手掛けてきた、キーボディストで編曲家の新川博氏。

15歳でCharらとのバンド「バッド・シーン」でデビューし、米バークリー音楽大学へ留学した後に、グラミー賞ブルース・ハープ奏者シュガー・ブルーのバンドに14年在籍した、伝説のギタリスト牧野元昭氏、の4人である。

マジカル・シティー:(1975年結成)

青山純(ドラム)1957年3月10日生
伊藤広規(ベース)1954年2月19日生
新川博(キーボード)1955年7月26日生
牧野元昭(ギター)1956年2月11日生

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作成・画像提供:伊藤広規office

まさに、いま世界で起きている「シティ・ポップ」ブームの立役者たちが一つに結集した奇跡のようなバンドだ。そんな彼らのプロデビューのきっかけが滝沢のバックバンドだったという事実は、あまり知られていない。

今回、シンガー・ソングライター時代の滝沢を知る、数少ないミュージシャン仲間である「マジカル・シティー」の元メンバー3人(青山氏は2013年に他界)にお集まりいただき、当時の思い出や滝沢についての貴重なエピソードをご披露いただいた。

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「マジカル・シティー」元メンバーへの取材は、コロナ禍の時世に配慮してリモートでおこなわれた。左上から新川博氏、伊藤広規氏、画面下が牧野元昭氏

メンバーと滝沢洋一の邂逅

──この度は、皆さまお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。日本の「シティ・ポップ」に世界から注目が集まる中、名盤と評価の高い『レオニズの彼方に』(1978)を発表した滝沢洋一さんが、音楽活動を始めた当時のことを記した文献や記事はほとんど存在せず、関係者の方にお話をお伺いするしかないと考えまして、滝沢さんのバックバンドを務められていた「マジカル・シティー」の元メンバーの皆さまに、当時の貴重なお話をお伺いさせていただきたいと思います。

実は、マジカル・シティーのことを知りましたのも、偶然ネットに2013年頃のラジオ番組の書き起こしテキストが上がっており、その中で伊藤広規さんと青山純さんが一瞬このバンド名を出されていたことで、滝沢さんとマジカル・シティーの繋がりが判明した次第です。まずは、バンド結成のきっかけ、メンバーとの出会いからお話しいただけますでしょうか?

新川博(以下、新川):メンバーのうち、青山純と俺が一番先に出会ったんだよね。高校生の時に付き合ってた彼女が「うちの高校にもドラムの上手い子がいるよ」って紹介してくれたのが最初。1973年頃かな、世田谷区の瀬田に住んでいて、青山は上野毛(かみのげ)に住んでるって言うから会いに行ったわけ。普通、高校生だったら日曜日って家にいないじゃん。でも、青山は日曜なのに家にいてドラム磨いてるんだよ(笑)。色白の少年でさ、これがメンバーとの最初の出会い。確かに滝沢さんのバックバンドはやっていたけど、その前に広規と俺が同じバンドでやってたよね? 慶応の「ファライースト」。

伊藤広規(以下、伊藤):そう、慶応大学の黒人文化研究会というサークルの「ファライースト」っていうディスコバンドの演奏を手伝っていて、メンバーは新川がキーボード、あとは牧野と一緒に「バッド・シーン」というバンドでドラムをやってた長谷川康之、ギターはアイク植野、それと俺が初めてベースで参加したバンドだったの。実は、それまでずっとギタリストだったんだよ。ボーヤが、まだ高校生だった青山純(笑)。長谷川とスキー場で知り合って、ファライーストに誘われたんだよね。その後、新川の家で初めて青山に会ったんだよ。滝沢さんと出会ったのは何処だったっけ?

新川:ファライーストの中に、トランペットを吹いてた慶応の有本俊一(2020年に他界)がいたじゃん? 有本の親父さんも、滝沢さんの親父さんも外務省の外交官だったの。で、市ヶ谷に子弟寮という、親が海外に赴任している間に住める学生寮があって、そこに皆でたむろってたんだよね。

牧野元昭(以下、牧野):たしか「子弟育英寮」って言ったよね、よく行ったよな。

新川:当時はみんな大学生だったんだけど、学校がストライキやってたから授業がなかったんだよね。だから慶応の学生たちも学校に行かないで、育英寮のワンベッドルームで毎日マージャンしてたんだよ(笑)。

──たしかに、70年代当時は日本中の大学でストをやっていて、休校している学校が多かった時代でしたよね。

新川:そのトランペットの有本の先輩として紹介されたのが、滝沢洋一さんだったんだよね。そのとき、滝沢さんのバックバンドをやることになったんじゃなかったかな。これがきっかけで、マジカル・シティーを結成することになったんだよね。

アマチュアバンド「マジカル・シティー」結成。命名者は滝沢

牧野:そのマジカル・シティーという名前は、滝沢さんが命名したんだよ。

伊藤:それ、俺は覚えてるよ。六本木にあった「デリー」っていうカレー屋で名前が決まったんじゃなかったかな。STUDIO BIRDMANの地下にあった店。当時マネージャーがいたよね、篠原っていう慶応の学生。いつの間にかいなくなったけど(笑)。「世界のマジカル!」とか言って盛り上がってたんだよ。で、滝沢さんのバックバンドをやるってことになって、育英寮の中で演奏したりしてたんだよね。

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1975年頃にマジカル・シティーのメンバーと市ヶ谷・育英寮で。左の帽子の男性が滝沢。真ん中上が牧野、下が青山、新川の各氏。伊藤氏が撮影か(滝沢家提供)

──皆さんがお知り合いになったのは、滝沢さんがアルファレコードと契約する前だったんですね。

新川:滝沢さんは最初、アルファの前にRCAレコード(現在解散)と契約してたんだよ。目黒のモウリスタジオで滝沢さんの曲のデモテープを録音した記憶があるよね。

伊藤:そうそう、モウリスタジオだよ! そのときRCAのディレクターに演奏のことで怒られて、あとで青山と俺とで合宿に行ったのを覚えてる(笑)。

新川:RCAのデモテープ録音のあとに、滝沢さんがアルファの社長だった作曲家の村井邦彦さんと知り合って、それからアルファ経由でマジカル・シティーにデモテープ録音の仕事が来たんだよね。

伊藤:そうだった、そうだった。それからアルファとの仕事が始まったんだよ。

舞い込んできた、デモテープ録音の仕事

新川:アルファは当時、まだ「アルファミュージック」っていう音楽出版社で、東京・田町の東急アパートにあったの。あの頃はデモテープを作るのって大変で、今みたいに自宅でDTM(デスクトップミュージック)で音楽が作れるような時代じゃなかったから、村井さんが「作曲家たちの作った曲のデモテープを作ってくれないか?」って僕たちに依頼してきたんだよね。

村井さんの自宅が文京区音羽にあって、そこに簡単なスタジオがあったの。後に「LDKスタジオ」になるんだけど、そこでマジカル・シティーの4人が毎日のように、アルファ所属の若手アーティストの作った曲のデモテープを録音させられていたんだよね。広谷順子とか。

伊藤:そう、まず育英寮で滝沢さんと知り合って、その寮で演奏して遊んで、滝沢さんがバンド名を命名した後にRCAで滝沢さんのデモテープを録って、今度はアルファに滝沢さんが移ったところで、アルファからマジカル・シティーに作曲家のデモテープを作る仕事が入ってきた、という順番だよね。

牧野:順番からいくとそうだね。この4人のメンバーを集めたのは新川なんだよな。

伊藤:だから滝沢さんとこの4人のバンド活動って、その育英寮の中で演奏して遊んでいた時と、RCAのデモテープ録音くらいなんだよね。

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市ヶ谷・育英寮にて。上から牧野、滝沢、青山の各氏(滝沢家提供)

「ニューミュージック」の名付け親は、滝沢洋一とマジカル・シティー説

新川:滝沢さんは持病があったから身体が弱くて、当時から入退院を繰り返してたの。だから滝沢さんとライブはやらなかったよね?

牧野:いや、やったことあるよ。実は、そのライブに関してとても面白い話があって、俺はよく覚えているんだけど、たしか広規が話を持ってきた、志賀高原丸池スキー場」(長野県)でのラジオ公開録音の仕事があったの。76年の初め頃かな。

伊藤:あれー、全然覚えてないや(笑)。

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ラジオの公開録音がおこなわれたライブ会場(滝沢家提供)

牧野:ライブ演奏を公開録音したんだけど、みんなで楽屋にいたときに、滝沢さんがラジオの司会者からもらった紙を見て「ウーン」っていろいろ考えてるわけ。何を考えていたのかというと、インタビューに答えて下さいって依頼があって、その質問のひとつに「どんな音楽を目指しますか?」って書いてあるの。どんな音楽って言われてもなぁって困ってて、滝沢さんが「まあ、新しい音楽とか言うしかねぇだろ」って。そこで、俺がなんとなく「じゃあ、ニューミュージックとか言うの?」って言ったの。

伊藤:そのまんまじゃん(笑)。

牧野:滝沢さんも「それじゃ、なんか分かんないよ」って言ってたんだよ。で、実際に司会者からインタビューされるときに「滝沢さん、どんな音楽を目指しますか?」って聞かれたら、「そうですね、ニューミュージックですね」って言っちゃったの(笑)。そうしたら、その後でアルファレコードから出るいろいろなレコードのキャッチコピーに「ニューミュージック」という言葉が使用され始めたのよ。だから、「ニューミュージック」っていう言葉は、滝沢さんがラジオの公開録音で言った言葉がおそらく最初なの。楽屋で「ニューミュージックとか言うの?」って滝沢さんに言っちゃったの俺なんだよ。

──すごい話ですね、これは日本中で誰も知らない「ニューミュージック」 誕生の瞬間ですね(笑)。

牧野:だから、滝沢洋一とマジカル・シティーが、たぶんニューミュージックの名付け親なんだよ(笑)。新川、この録音テープ持ってなかったっけ? 誰かが録音テープを持ってて聞かせてくれたんだよなぁ。世の中の真実なんて、大体こんなもんなんだよね(笑)(編集部註:後日、この録音テープは現在も滝沢家が所有と判明)。

──当時、アルファといえば「ニューミュージックのレコード会社」というイメージがありましたよね。

伊藤:この時代は何やっても先駆者になれたよなぁ。

新川:そういう時代だったかもしれない。まだフォークとかロックという言葉くらいしか無かったし。

広規は「ファライースト」の頃から、しょっちゅうスキー場で演奏してたんだよね。志賀高原の志賀ハイランドホテルに電話して「従業員部屋につないでください、伊藤広規くんお願いします」って、練習のたびに東京へ呼び寄せてたんだよね(笑)。

伊藤:俺が東京にいないことが多いから、バンドメンバーが志賀高原まで遊びにきた記憶はあるんだよ。新川と青山と、あと何人か。そこに滝沢さんもいたのかな? ラジオの公開録音の話は、そのときだったのかもしれない。

新川:あの当時、なんでスキー場で演奏する仕事が多かったんだっけ?

伊藤:当時のスキー場はアマチュアバンドでも演奏できたの。あの頃のスキー場はいろいろな人が呼ばれてたよ、内田裕也(2019年に他界)とか、カルメンマキ&OZとか、渡辺貞夫とか、日野皓正とか。

新川:昔はカラオケがないから生で演奏するしかないんだよね。

伊藤:最高に盛り上がってたよね。スキー場で長谷川に会ったのが運のツキで「ファライースト」に呼ばれたわけよ。そこでベースを始めることになったわけ。

新川:あの当時、ベースって日陰者だったよね。だから誰もベースなんてやりたくない、みんなギターをやりたいの(笑)。

伊藤:ギタリストだったらベースできるんだろ? っていう感じだったんじゃないかな。ベースなんてジャンケンで負けてやるやつだったもんな(笑)。でも、ラリー・グラハム(スラップ奏法の始祖)がいたからベースにハマっちゃったんだよね。

新川:でも広規がベース始めた頃は、勝手にリードとって前に出てくるから「もっとベースらしくしろ!」ってよく俺が怒ってたよな(笑)。

まさかのメンバー脱退、そしてプロへ

伊藤:そうこうしているうちに、新川がハイ・ファイ・セットのバックバンドに加入するからって「マジカルを脱退したんだよね。

新川:あれは76年だったかな。ハイ・ファイ・セットのバックは「ガルボジン」っていう名前で、松任谷正隆さんがキーボード、松原正樹(2016年に他界)がギター、重田真人がドラム、宮下恵補がベースだった。そのガルボジンが吉田拓郎のツアーに半年くらい同行するから、ハイ・ファイ・セットがバックバンドを募集することになって、毎日スタジオでデモテープ録音しているマジカル・シティーっていうのがいるから、奴らにバックをやらせようということになったの。これで、僕らは初めてちゃんとしたギャラをいただく仕事ができたわけ。

伊藤:そうそう、初めてだったよね。

──やっと、プロとして仕事ができるようになったんですね。

新川:ハイ・ファイはバード・コーポレーションという事務所にいたから、その所属アーティストのバックも任されたんだよ、フォークシンガーの田山雅充とか。「あなた」の小坂明子さんもやったよね。コンサートツアーにも同行したり、半年くらいそんな生活してたんだけど、ガルボジンが拓郎のツアーから帰ってきて、僕らはお払い箱になっちゃった。ところが、松任谷さんが由実さんと結婚する頃で、これから奥さんの仕事しなきゃいけないから、新川くんだけ残ってよって言われて。松任谷さんの代わりにガルボジンに加入することになったの。それで、俺だけ「マジカル」を脱退したんだよね。

名盤『レオニズの彼方に』レコーディング秘話

伊藤:新川が抜けたあとに、ちょうど滝沢さんがソロアルバムをレコーディングするっていう話になって。それが『レオニズの彼方に』なんだけど、佐藤博さん(2012年に他界)が全曲アレンジを担当することになって、この録音で初めて佐藤さんに会ったんだよ。新川の代わりには小池秀彦というキーボードが入ったけど、『レオニズ〜』はほとんど全曲を佐藤さんがキーボード演奏したから、小池はレコーディングに参加はしていないんだよね。

牧野:佐藤さんとバンドを組むことになった経緯は何だったんだっけ?

伊藤:『レオニズ〜』の録音が終わった後、1978年6月に佐藤さんの31歳の誕生日をお祝いしようって、みんなで「サーティーワン」のアイスクリームケーキを持って佐藤さんの自宅へ行ったんだよ。そのとき、佐藤さんから「長い付き合いをしたいんやけど」って言われて、マジカル・シティーはバンド丸ごと佐藤博さんに抱えられて、パーカッションのペッカー(橋田正人)も加えて「佐藤博とハイ・タイムスが結成されたんだよ。

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日比谷野音で行われた「佐藤博とハイ・タイムス」のライブの一コマ。左から、小池秀彦、伊藤広規、佐藤博、青山純、ペッカー(橋田正人)、牧野元昭。伊藤広規office提供

牧野:そうだったっけ、まったく覚えてないな(笑)。

伊藤:だから、滝沢さんと最後に仕事したのはレオニズ〜の録音が最後で、その後にツアーはやってないよね。このときぐらいから滝沢さんは作曲家活動に入ってたから。

──『レオニズ〜』では、どの曲を演奏したのか覚えていますか?

牧野:俺が覚えているのは「最終バス」っていう曲。あれはいい曲だったから、いまだにメロディー覚えているんだよね。

──アルバムの一曲目ですね、この「最終バス」はシングルカットもされています。

● 滝沢洋一最終バス(1978)

作詞:山口純一郎
作曲:滝沢洋一
編曲:佐藤博
アルバム『レオニズの彼方に』(1978)所収

伊藤:これ、当初より大分アレンジが変わったんだよね。

『レオニズ〜』のことでよく覚えているのは、アルバムには入らなかったんだけど「日よけ」っていう曲があって、その曲が俺は一番好きだった。かなりカッコイイ曲だったのよ、音源が今もあるか分からないけど、たぶんデモテープを録っただけだったと思う。

──『レオニズ〜』はラテン・ピアノの第一人者、松岡直也さん(2014年に他界)が参加されています。レコーディング時のことを覚えていらっしゃいますか?

伊藤松岡直也さんのレコーディングを見学した記憶はありますよ。佐藤博さんと見てて「やっぱり凄いね、この人」って(笑)。松岡さんは、すべてのリズムセクションを録り終わったあとに「かぶせでピアノを録音したんだよ。だから松岡さん一人で来て入れたの。このとき「こんな凄いオッサンがいるんだ!」って初めて認識したね。この一年後くらいに、松岡さんの『Majorca』(1979)っていうアルバムに、村上ポンタ秀一(2021年に他界)らと一緒に参加することになるんだけど。

──その他、滝沢さんの曲を録音した当時で覚えていることはありますでしょうか?

牧野:滝沢さんは、本当にスティービー・ワンダーが大好きだったんだよ。意外なコード進行展開とか、絶対に影響を受けていると思う。あと、もの凄く強いメロディーを書くんだよね。ソングライターでも、コード進行に凝ってる割にメロディーが単調な曲を作る人って多いじゃない? でも、彼は絶対にそういう曲は書かなかったよね。滝沢さんの書く曲は、楽器で弾いてもサマになるメロディーだったと思う。

新川:覚えているのは、滝沢さんがスティービーの歌い回しとかをコピーして真似してみせるんだよ、「こうだろ? こうだろ?」っていう感じで(笑)。

伊藤:そうだった、そうだった(笑)。

脱退後に聴こえてきた滝沢メロディ

──いまYouTubeにガルボジンがバックで演奏している、ハイ・ファイ・セット「メモランダム」のライブ版という音源がアップされているんです。滝沢さんの代表作ですが、これはマジカル・シティー脱退後にガルボジンに参加した新川さんが演奏されていますよね?

新川:うん、そうだと思う。ガルボジンに入ってしばらくしてから、滝沢さんの曲をハイ・ファイ・セットが歌うって聞いて、滝沢さん懐かしいなって思ったんだよね。ハイ・ファイ・セットのレコードに入ってる「メモランダム」は、米ロサンゼルス録音なんだよ(アルバム『ダイアリー』)。その録音、当時ハイ・ファイにLAまで連れていってもらってA&Mスタジオで見学しているんだよ。

ドラムはハーヴィー・メイソン、ギターにリー・リトナー、編曲がボブ・アルシバーだったかな。マジカルを脱退して久しぶりに滝沢さんの作曲した「メモランダム」を聴きながら、ああ懐かしいなって思った記憶があるな。

元メンバーたちが語る「滝沢洋一」

──では最後になりましたが、滝沢洋一さんという音楽家について、一言づつお願いできますでしょうか。

新川:この歳になって、当時のいろいろなことをみんながアーカイブし始めたことで、滝沢さんってあの時代を自分と同じように生きてきた人なんだなぁと改めて思いましたね。そして滝沢さんが、今回のようなインタビューの話や、村井邦彦さんユーミンとかを自分に引き寄せてくれた人だったんだなって。だから、メンバーが生きているうちは、こういった思い出話を酒の肴にして遊ぶのも悪くないなって思いますね。

伊藤:滝沢さんは本当に良い曲を書くよね。レコードには入らなかった「 日よけ」っていう曲の話をしたけど、この曲が一番印象的だった。さっきみんなで聴いた「最終バス」も、今だにフレーズを覚えてるくらい印象に残ってる。これまで散々いろいろな仕事をしてきているのに、これだけ強く印象に残るっていうのは、本当に凄い人なんだなって改めて思いました。今の時代に聴いても「いいなぁ」って思える曲を書く作曲家でしたね。

牧野:俺は新川や広規に比べてバックの仕事は少ないから、たくさんのソングライターと仕事しているわけじゃないんですけど、滝沢さんって本当にいいライターだったと思います。メロディーが強いし印象的だし、何と言ってもコードが洒落ていたよね。「最終バス」も、後から佐藤博さんがアレンジをしたっていうのはあるんだけど、スティービー並みの意外なコード進行とか、元々のコードが洒落ていたから佐藤さんもいじり甲斐があったんだと思いますね。

伊藤:みんな、まだ元気だったら滝沢さんの曲をライブでやろうよ、マジカル・シティー再結成で! 青山の代わりは息子の青山英樹に頼んでさ、彼は本当にいいドラマーなんだよ。だから、また「マジカル」やるんだったら青山の息子を誘おう。滝沢さんの娘さんも歌を仕事にしているみたいだから、ヴォーカルに誘ってさ。滝沢さんのキー高いから、そのままでいけるんじゃないかな。

新川:うん、コロナが落ち着いたら是非やりましょう!

牧野:なるほど、そうだね。やろう!

──本日はお集まりいただきましてありがとうございました。再結成のマジカル・シティーで、オリジナルメンバーによる滝沢さんの曲が聴ける日を楽しみにしております。


約2時間にわたる「マジカル・シティー」リモート座談会は、笑いが絶えない「同窓会」のような雰囲気で、始終盛り上がりっぱなしであった。ここで分かったことは、滝沢が多くの後輩ミュージシャンたちに慕われ、そして多くの人脈を繋ぐ役割を果たしていたということだ。

滝沢はソングライターとして存在感のある優れた楽曲を作り続け、その作品は40年以上の時代を経てもミュージシャン仲間たちの耳に残り続けている。滝沢サウンドの魅力が詰まった名盤『レオニズ〜』は、仲間たちと過ごした時間や苦楽を共にした経験が折り重なって完成したのだと感じた。

マジカル・シティーのメンバーらとソロアルバムを作り終えた滝沢は、その前後から多くの歌手やタレント、アイドルたちに楽曲を提供する「作曲家」として、活躍のフィールドを広げてゆくことになる。

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