なぜトヨタ生産方式「生みの親」大野耐一は“型破り”でも許されたのか

 

“トヨタの企業文化の系譜”について、こんな感慨を述べています。

「佐吉翁は豊田の諸事業を運営して行くために、実子(喜一郎)の技術に配するに、養子(利三郎)の経営者を以てしたのである」

「実子でいささか冷やメシ的境遇にあった喜一郎さんに対してこそ、未知数で、冒険で、大事業ともなるべき自動車工業の深い谷間へ『お前やってみろ』と追い落とすことが出来たわけである。しかも、その喜一郎さんならばこそ『道楽仕事』のそしりを尻目にかけて、菜っぱ服姿で機械のの下にもぐりこませたのである」

「いつもしずかに思い返してみる。トヨタ自動車はどうしても、佐吉、利三郎、喜一郎の三人が、それぞれにそれぞれの役割を果たすことで、ここに初めて今日の陽の目をみるに至ったものであるのだ」

石田さんは「トヨタの連中は、どうして、こうも働き者がそろっているんですか」と尋ねられたとき、「わたしは内心ニンマリとしながら『田舎モンのええとこですわ』と受け流しておいたが、われながらうまいところズバリ言ったもんだ」「トヨタ・マンに対する大きな自慢である」と言っているのです。

加えて「人づくり」については、こんなことを語ります。

「これぞと思う有望なタレントには、それこそ、本人がネをあげるまでに、次から次へと新しい仕事を与える。押し付けるのではない。自らすすんでこれを引き受けるようにさせる。そうして、どこまでその可能性を追求できるか(本人としても験し甲斐のあることだし、会社としてもすこぶるやらせ栄えのあることになるものだ)。こうしたところから始めて『考える社員、敢えて行なう社員、大きく物事を掴み取る社員』の粒揃いになってくるのである」

と。ここまで石田さんの話を聞いて来て、少しは雰囲気を感じてもらえるかと思うのですが、大野耐一さんは貴重なタレントである故に、その活躍の場が生れて、大いに期待され支援されたのです。大野耐一さんも『よい品、よい考』のもと「トヨタ生産方式」の実現のために忍耐強く全従業員を巻き込んでいったのです。

事は、豊田喜一郎さんの「3年でアメリカに追いつけ」と言われたことに始まるのですが、そう言った昭和20年の日本の生産性はアメリカの8分の1であることが知らされていました。豊田喜一郎さんは、そのための方策を“ジャスト、インタイム”をアイディアとして、以下のように提言したのでした。

「『過不足なき様』換言すれば、所定の製産に対して余分の労力と時間の過剰を出さない様にする事を第一に考えて居ります。無駄と過剰のない事。部分品が移動し循環してゆくに就いて『待たせたり』しない事。“ジャスト、インタイム”に各部分品が整えられる事が大切だと思います。これが能率向上の第一義と思います」

「人のやったものをそのまま輸入する必要もありますが、何と云っても、苦心してそこまでもって行った者には、尚それをよりよく進歩させる力があります。人のものをそのまま受け継いだものには、楽をしてそれだけの知識を得ただけに、さらに進んで進歩させる力や迫力には欠けるものであります。この『迫力を養わなければ』なりません」

“ジャスト・イン・タイム”の生産方式に対する部下の「フォードの工場ではそんな事はしていません」という言葉に対して、

「フォードがどんな方式を取っておろうと、トヨタはトヨタでやります。フォードよりすぐれた方式を打ち立てねば、フォードに勝てません」

「模倣の知識」では、その知識を凌駕することなどないのです。ドラッガー流に解釈すると、喜一郎さんは、独自の「トヨタ生産方式」の開発に“集中”することを意思決定し、トップレベルの“市場地位”を確立することを意思決定したとなります。

print
いま読まれてます

  • なぜトヨタ生産方式「生みの親」大野耐一は“型破り”でも許されたのか
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け