小山田圭吾の「いじめ謝罪」から一夜明けて。やはり続投は無理筋、五輪組織委が目を背ける厳しい現実とは?

2021.07.17
by qualia(まぐまぐ編集部)
小山田圭吾②
 

東京五輪・パラリンピック開会式の楽曲担当である小山田圭吾氏(52)が、過去の雑誌インタビューで学生時代の「障がい者いじめ」を自慢し批判を受けた問題で、小山田氏は16日、「クラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実」とする謝罪文をツイッターに投稿した。また五輪組織委は同日、小山田氏の続投を発表。過去の発言や行為について「把握していなかった」としたうえで、「現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエーターの一人」であるとの見解を発表した。

しかしSNS上では、謝罪文の発表直後から小山田氏や五輪組織委への批判がさらに加速。

謝罪文を読んだ仕事仲間のG氏が「偉いよ小山田くん。いい音出してこう!寧ろ炎上なんか◯◯喰らえ。」とツイート(現在は削除済み)して火に油を注ぐ一幕もあり、東京オリパラ開会式が1週間後に迫る中、問題が沈静化する様子はまったく見られない。今回の騒動を「いちアーティストの昔のやんちゃ話」として片付けるのは、どうにも無理がありそうだ。

いじめが決して許されない行為であることはもちろんだが、それ以上に組織委は、これが日本という国のあり方まで左右しうる現在進行形の問題だ、という現実を理解していないのではないか。

小山田氏の“みそぎ”は済んだ、これ以上の批判は逆にネットいじめになる、といった声も一部にあるが、むしろ「論点のすり替え」や「問題の矮小化」を危惧する声のほうが多くなっているのが現状だ。

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「小山田を叩く人間は清廉潔白なのか?」

小山田氏の謝罪と前後して、SNS上では、
「人間なら誰でも1つくらい、後ろ暗い過去があるはずだ」
「小山田を批判できるのは、清廉潔白な聖人君子だけだ」
という類の擁護(?)が散見されるようになった。

けれど、これは何とも奇妙な“マイルール”だ。

確かに、人間誰しも人に知られては困る過去の行為の1つや2つはあるだろう。だが問題はその“程度”だ。小山田氏がインタビュー記事で誇示していた凄惨ないじめ行為は、本当に世間で「よくある」レベルのものなのか。

常識で考えれば、後ろ暗い過去ほど、ひた隠しにするものだろう。それを「被害者に排泄物を食べさせ、バックドロップをかけた」と自慢する心理は、一般人には理解しがたいものがある。たとえ自分が聖人君子でなくても、声を上げたくなるのは人としてごく自然な感情だ。

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「どうして今さら蒸し返す?小山田は永遠に許されないのか?」

「小山田のいじめエピソードなんて、誰もが知っていたはずの話だろう」
「なぜ今さら炎上させるんだ?何度も蒸し返して、小山田はむしろ被害者じゃないか」

このように同情的なコメントを発信する人もいる。しかし「小山田氏のいじめ問題は昔から有名」だと言っても、それはあくまで音楽村の一部や、サブカル村に限定された話だった。小山田氏の国内での活動フィールドは決してメジャー寄りではない。単に「お茶の間認知」が低かったから、これまで運良く炎上せずにやり過ごしてこれただけとも言える。

なぜ「今さら」炎上するかといえば、東京2020オリンピック・パラリンピック大会は国家の威信をかけた一大イベントであり、開会式は日本が世界中に発信するメッセージそのものとなるからだろう。

批判をしている人たちが皆、小山田氏というアーティスト個人を憎んでいるわけではないし、単に「いじめは許せない」というだけでここまで炎上することはない。

いくら音楽の才能があったとしても、日本の顔としてはふさわしくない、と多くの国民が感じるからこそ、謝罪後に批判が増えているのだ。

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「いじめの当事者でもない人間が、これ以上口を出すな」

「いじめの当事者でもない人間が偉そうに口を挟むな」
「これでは逆に、小山田氏に対する集団いじめになる」

このように小山田氏を擁護する声もある。一見、正論に見えるが、このような主張には大切な視点が欠けている。

確かに、小山田氏個人としてのいじめ問題は、当時の被害者に直接謝罪するなり、何らかの補償を行うなりすれば「解決」できるかもしれない。

小山田氏自身が「学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております」と表明している以上、被害者側に応じる意思があるのなら、あとは当人同士の問題。第三者が口を挟むのは筋違いとなる。

けれど、小山田氏が東京五輪の楽曲担当を辞退せず、組織委が続投を認めたことに関しては、すべての日本国民が当事者のはずだ。

五輪には多額の税金が投入されており、開会式はその「顔」となる重要なイベント。日本は、小山田氏の起用によって「我が国は障がい者差別を認める人権意識の低い国である」という誤ったメッセージを世界中に発信することになる。

いじめには「傍観者」がつきものだが、はたして今回の出来事を「自分は当事者ではない」と傍観していいのか。小山田氏や組織委への批判が加速するのは、こと五輪に関しては日本国民全員が当事者であり利害関係者であるからだ。

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「現在の人権意識で、過去の表現を断罪するな」

「今の感覚で、昔を罰するのはおかしい」といった声もある。

これに関して批評家の東浩紀氏(50)は、「25年前のサブカル雑誌のインタビューを持ち出されて批判されるのはきわめて厳しい」「大昔の発言や行動記録を掘り出してネットで超法規的にリンチするのはよくないと思う」とツイッター上で指摘。

当時と今では社会的に許容される「表現のコード(約束)」が違うから、「過去の表現を現在の基準でどんどん倫理的に断罪する」のは危険であり、「いじめがダメだということと、『いじめについてああいうふうに語る』のがダメだということを区別すべき」だとした。

この指摘はたしかに一理あり、出版物においては、たとえば「今日の人権意識に鑑みて不適切と思われる表現」も「当時の社会状況を踏まえて」原文ママとする運用が広く一般的に認められている。もしも過去を現在の基準で断罪することが当たり前になれば、サブカルチャーに限らずあらゆる文化が破壊されてしまう。

ただし今回、小山田氏が批判されている原因は、雑誌インタビュー記事の表現手法や文体ではなく、表面的な装飾をすべて取り除いたあとに残る発言や行為の本質そのものにある。「行為」と「語り口」の区別はきっちりつけるべきだが、東氏の主張を意図的に曲解して援用し、過去のいじめ行為をなかったことにしようとするのは無理がある。

小山田氏が少年期を過ごした1970〜80年代といえば、子どものケンカやいじめにも「刃物は使わない」「急所は狙わない」「集団リンチは卑怯者のすることだ」など、まだ最低限の「コード」が存在していた時代ではなかったか。

そして、そのような不文律が完全に破られた象徴のひとつが1993年の山形マット死事件であり、学校現場におけるいじめの残忍さに日本中が震撼し、少年法改正の機運が高まるきっかけとなった。

小山田氏はその直後の1994年に、雑誌インタビューで「マットレス巻きにして殺しちゃった事件とかあったじゃないですか、そんなことやってたし」と発言した。

これは当時の社会はもちろん、サブカルチャー文脈に限定したとしても、一般的な受忍限度を超える行為だ。「昔はこんなの普通だった」と主張するのはむずかしい。

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「小山田は謝ったじゃないか。終わった話を焚き付けるな」

「子どもの頃の話を、いつまで掘り返すつもりだ」
「謝罪して反省しているんだから、もういいだろ」
「そんなに嫌なら、五輪の開会式を見なきゃいいだろ」
といった声も聞かれる。

小山田氏の「謝罪」文は、「多くの方々を大変不快なお気持ちにさせ」たことに対する範囲限定の謝罪と、情緒的な懺悔の表明で構成されている。そのため、政治家がよく使う「誤解を与える発言があった点は謝罪するが、辞任はせず職務を通して責任を果たしていく」論法と同種の不誠実さを指摘する声があるようだ。

また謝罪文の中で、過去のインタビュー記事に関して「発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されて」いるとしたため、では実際に何が事実で何が誇張だったのか?という新たな論点が生じている。

もっとも、これだけなら「小山田氏個人の終わった話」として片付けることもできる。

しかし、東京五輪は「日本でこれから始まる」イベントなのである。

組織委は小山田氏を「現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエーター」と肯定的に評価し、あろうことか続投を認めてしまった。その結果、国際社会に恥をさらすのは小山田氏個人ではない。今回の騒動は海外でも報道されており、このままでは日本という国そのものの良識とあり方が疑われることになる。

小山田というアーティストの人間性や、反省の有無は問題の本質ではない。このままでは、日本はオリンピックの歴史に永遠の汚点を残すことになるだろう。

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小山田氏と五輪組織委の選択肢は「辞退」だけ

小山田氏の謝罪文を読んだ仕事仲間のG氏は、「偉いよ小山田くん。いい音出してこう!寧ろ炎上なんか◯◯喰らえ。」とツイートした(現在は削除済み)。

小山田氏自身がいくら頭を下げても、周囲の親しい人間がこれでは収束するものも収束しないし、謝罪の意思さえ疑われかねない。

見事なまでのフレンドリーファイアだが、このような悪ノリは仲間内でしか通用しない。今回の騒動は小山田氏個人の問題ではなく、日本全体の問題である。

五輪批判派の中には、「むしろ小山田を辞退させるな。日本は外圧でしか変わらない。このまま開催までいって世界中に恥を晒させろ」と主張する人たちまで現れはじめた。本当にこれでいいのか。

ある古いファンは、「作品に罪はない。小山田の音楽が好きだし自分はこれからも聴く」と記者に言った。

楽曲に罪はない。だからこそ小山田氏自身はもちろん、五輪組織委はいまいちど「引き際」を見極めなおす必要があるのではないだろうか。

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image by : 背面 shutterstock / English Wikipedia / CC BY 2.5

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