二階幹事長に“血判状”を叩きつけた林芳正議員「仁義なき山口抗争」の舞台裏

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コロナ対策の失敗で支持率低迷を続ける菅政権ですが、さらに頭を悩ませているのが今年中におこなわれる予定の「衆院議員選挙」の候補者選び。その衆院選候補をめぐって自民党内で騒動となっているのが、山口県第3区で二階派の家老である河村建夫氏に対抗して、林芳正元文科相が表明した異例の出馬宣言です。今回のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』では元全国紙社会部記者の新 恭さんが、保守分裂選挙となりそうな山口の自民「仁義なき戦い」の背景と、二階氏が他県でも抱える分裂選挙の“火種”について詳述しています。

 

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迷える二階。山口3区くら替えの林芳正を袖にできるのか

はてさて、自民党の二階俊博幹事長はどうするつもりだろう。売られた喧嘩は受けて立つと脅した相手が自信満々で立ち向かってきたのである。

林芳正参議院議員は7月15日、衆議院にくら替えして山口県第3区で立候補する意思を表明した。保守分裂選挙を厭わず、二階派の家老である河村建夫氏の領地を奪い取ろうというのだ。

なにしろ、林芳正氏は強敵である。防衛大臣、農水大臣、文科大臣をそつなくこなした実績の持ち主だし、流暢な英語で自在に政策論議ができる。発言も理路整然としている。

むろん、苦労知らずと思える経歴は、いささか気にはなる。東大法学部を出て三井物産に入社、ハーバード大ケネディスクールで学び、大蔵大臣をつとめた父、林義郎氏の秘書を経て、政界へ。

絵にかいたようなエリート、判で押したような世襲。義理人情にしばられ、カネにとらわれ、権謀術数渦巻く政治の世界では、知性的な強みはしばしば、ひ弱さにつながる。

いつか総理にと支持者に期待され、総理になるには衆議院に転じるべしと本人も思ってきた。にもかかわらず、これまで実行できなかったのは、温厚な性格と突破力のなさゆえか。なにも、本人が言うように、衆院選の時期に大臣をやっていたからというだけではあるまい。

林氏が参議院山口選挙区に立候補して当選したのは1995年7月のことだった。その頃、衆議院には、父、義郎氏が議席を有していた。

義郎氏は2003年の衆院選に立候補せず、政界を引退したが、芳正氏は参議院にとどまった。衆議院に小選挙区比例代表並立制が導入されてから、義郎氏が比例中国ブロックの単独候補に転じていたためだ。

中選挙区時代の旧山口1区(定数4)で最後に行われた衆院選は1993年。自民党からは安倍晋三、林義郎、河村建夫の三氏が当選した。得票数は安倍氏がダントツで、林氏は河村氏をわずかだけ上まわっていた。

小選挙区比例代表並立制になって旧山口1区は今の山口3区と4区に分けられ、初めての衆院選は1996年に行われた。そのさい、林氏が地元から身を引き、3区を河村氏、4区を安倍氏に明け渡したのである。当時の総理総裁は橋本龍太郎氏、幹事長は加藤紘一氏だった。

党と林氏との間でどのような話し合いがあったのかは寡聞にして知らない。70歳近かった林氏が若い二人に譲ったという説もあるが、そんな生易しいことではあるまい。80歳になっても権力にしがみつく政治家や経営者はウヨウヨしている。集票力に自信を持つ林氏にとっては苦渋の決断だったに違いない。長い年月をかけて固めてきた地盤を離れ、党の差配に身をゆだねたのである。

 

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