金メダリスト吉田秀彦が明かす「異様な雰囲気」を醸し出していた父親

 

昔のガンコ親父のような父親から逃げ出したい…

「あんたの試合を観ると、心臓がドキドキしちゃうから」

オフクロはそんなことを言って、僕の試合を観に来なくなったが親父は熱心に試合会場に足を運んでくれた。道場のみんなとキャンプやバーベキューに行く時は、率先して親父が車を運転してくれた。あの無口な何を考えているのかわからなかった親父は、今にして思うとみんなと賑やかにしていることが、好きだったんじゃないか。

道場の先生とは麻雀仲間になって、週に1回は卓を囲んでいた。僕の柔道を通して親父も交際範囲が広がり、趣味が広がったという感じだった。

僕は小学生の時から身体は大きかったが、ずば抜けて強い選手ではなかった。道場の先輩が全寮制で柔道を教える私塾、講道学舎に進んだことから僕も親父に連れられ、東京の世田谷にある講道学舎の試験を受けたのは中学2年の終わりだった。僕と一緒に試験を受けた同じ道場の同級の選手がとび抜けて強かった。講道学舎はその選手を取りたかったのだろう。その子も合格したが、ついでに僕も入塾が許された。

「どうするんだ?」

と、親父に聞かれたことを思い出す。あのときは“学舎に行け”と親父に言われたのか、僕のほうから“行く”と決めたのか、定かではない。

「大丈夫だよ、どうにかなるって」

学舎に行くと決めた後、そんなことを言ったような気がする。

親父としては自分も中卒で田舎を離れて働いたわけだし、お前も一生懸命になって頑張ってみろ、ぐらいに思っていたのだろう。いずれにしろ、親父は深い考えがあって僕を東京に出したわけではなかった。

オフクロは寂しかったみたいだ。だが14歳で家を出た時はもうこの家に戻り親父やオフクロと一緒に暮らすことはないだろうと、僕は漠然とわかっていたような気がする。何より一緒にいると間が持てない、話すことがない、そんな昔のガンコ親父のような父親から、逃げ出したい気持ちがあったのは確かだ。

どこに置かれても適応能力には自信がある。講道学舎には同じ年の子もたくさんいたからすぐに慣れて、ホームシックになるようなこともなくて。

とにかく柔道に集中する環境だった。周りには古賀先輩をはじめ強い選手がたくさんいた。

──負けたくない、強くなりたい。

試合で勝てるようになると徐々に自信がついてきた。レギュラーとして高校2、3年は全国大会で優勝したが。

僕も親父に似ているのだろうか

「オレ、専門学校に行って接骨医になるよ」

親父にそんな相談をしたのは、高校3年の時だった。スポーツ推薦で入れる大学はたくさんあったが、柔道は高校時代に目一杯やった。もうあんなにきつい練習から足を洗いたかった、柔道は高校時代で終わりにしたかったんだ。

「大学には行っておけ」

親父のあの時のアドバイスも深い意味があってのことではない。高校で結果を残しているし、無試験で大学に入れるんだし、地元の道場の先輩の多くも大学に進学している。「だからお前も行け」と、その程度の考えだったに違いない。

一つぐらい親孝行をするつもりで、親父の言うことを聞き大学に進学して。親父の小さな自営の会社は新日鐵の下請けだった。新日鐵に就職したのは親会社に有力な柔道選手として就職することで、親父に少し鼻が高い思いをさせてあげようと、自分で決めたことだった。

入社してすぐにバルセロナ五輪で金メダルを獲った。帰国すると新日鐵名古屋製鉄所にも挨拶に行って、その意味では親父もかなり顔が立ったんじゃないか。

バルセロナ五輪で内股が決まり、一本勝ちで優勝した時も親父は会場にいた。この時も親父が「頑張ったな」とか「よかったな」とか、声をかけてくれていたら、僕も笑顔で応えたのだけれど。相変わらず親父は照れ性の言葉足らずで、自分の気持ちを人に伝えるのがへタクソだから。

首から金メダルを下げた僕は、照れたようにちょっと嬉しそうな顔をする親父と、とりあえず握手をしたのを覚えている。あの時、親父とちょっとだけ、心を通じ合えた実感を抱いたものだが。

僕は次に控えた古賀先輩のことで頭がいっぱいだった。宿舎に戻って古賀先輩にこの金メダルのことをどう伝えるか。先輩の励みになってくれればいいが……。
僕も親父に似ているのだろうか。言葉では古賀先輩に、何も伝えられなかった気がしている。

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