プーチンを激怒させた「ウクライナ侵略の引き金」NATOの生い立ち

 

NATOの歴史

NATOの歴史は、4つの段階において変容した。創設期、冷戦終結、対テロ戦争、米露対立の4段階だ。

NATOは、第二次世界大戦が終結し、その結果として東欧を支配下に置いたソビエト連邦との対立が激しくなる中、英国や米国が主体となり、1949年4月4日に締結された北大西洋条約に誕生。

ソ連を中心とする東側陣営に対抗するための西側陣営間の多国間軍事同盟であるとともに、初代事務総長のヘイスティング・イスメイの、

「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」

という言葉が象徴するような姿がそこにはあった。

設立当初は、米国などの一部の国では、ドイツの徹底的な抑え込み、すなわちドイツの脱工業化、非ナチ化が構想される。

また戦後、連合軍占領下ではドイツは徹底的に武装解除され、小規模な国境警備体や機雷掃海艇部隊以外の国軍は持つことは許されず、代わりとして米国・英国・フランス・ソ連の4カ国が治安の責任を担う。

ところが、冷戦体制となり西ドイツに経済復興が求められる。主権回復後の1950年には西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に再軍備の検討もなされ、西ドイツはドイツ連邦軍の創設とNATOへの加盟を進めたが、しかしフランスがこれに反対、フランスは欧州防衛共同体構想を提示する。

ただ、この構想はフランス議会で否決され、結果、フランスもドイツの再軍備を認め、1955年11月12日にドイツ連邦軍が誕生、同時にNATOに加盟した。

これに対し、ソ連を中心とする東側諸国はワルシャワ条約機構を発足、これによりヨーロッパは一部の中立国を除き、東西に2つの軍事同盟に分割された。

しかし、そのNATOは、冷戦期間中を通じ、実戦を経験することなく、冷戦の終結を迎える。

それとともにNATOは自らの存在意義を模索する段階に迫られ、1991年に「新戦略概念」を策定、新たな脅威として周辺地域における紛争を上げ、実際に1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナにおける内戦で適用された。

1999年のコソボ紛争時にはセルビアに対し、NATOとて初めての軍事行動となる空爆を行った。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件では直後の10月2日に北大西洋条約5条を発動、2005年にはNATO軍はアフガニスタンにおいて初めて地上戦を行った。

しかし2000年代後半に入り、米国は東欧ミサイル防衛を推進、あるいはロシアの隣国であるジョージアやウクライナがNATOの加盟を目指したのに対し、経済が復興したロシアが強く反発、“米露新冷戦”とも呼べる事態を生んだ。

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