プーチンを激怒させた「ウクライナ侵略の引き金」NATOの生い立ち

 

冷戦後のNATO

NATOの東方拡大が、今回のロシアのウクライナ侵攻の要因のひとつになったことは間違いない。2月28日の、英国ガーディアン紙は、

「多くがNATOの拡大は戦争を引き起こすと警告。しかし、それが無視された。我々は今、米国の傲慢さの対価を負わされている」

との見出しで、

「ロシアのウクライナ攻撃は侵略行為であり、最近の展開においてプーチンは主要な責任を負う。だが、NATOのロシアに対する傲慢な聞く耳を持たない対ロシア政策は、同等の責任を負う」

とした。

時は、1990年に遡る。ソ連はまだ、ドイツ再統一に否定的であった。とくに再統一されてドイツがNATOに入り込むことをソ連は懸念する。そのとき、西ドイツの首脳や米国首脳は、「NATOを東方に拡大しない」と説明していた。

実際、1990年2月9日、ベーカー米国務長官とソ連のシュワルナーゼ外相の会談時、ベーカーはソ連外相に、「NATOの管轄ないし、NATO軍は東方に動ないという鉄壁の保障が存在しなければならない」と語った。

あるいは、同年2月9日のゴルバチョフとベーカーの会談の際には、ベーカーはゴルバチョフに対し、

「もしわれわれがNATOの一部となるドイツに留まるなら、NTAO軍の管轄は1インチたりとも東方に拡大しない」

と述べたという。

ただ、冷戦の終結自体をNATOは歓迎したものの、1991年にワルシャワ条約機構が解散し、東中央諸国の安全保障上のつながりが一切、ないのは問題だった。ただ、この地域での紛争や不安定化は十分、予想できた。

さらに、1992年8月にモスクワで反ゴルバチョフのクーデター騒ぎがあり、ソ連中枢の権力の弱体化が誰の目にも明らかとなると、NATOもこれまでと同様、傍観することはできなかった。

そこで考案されたものが、「北大西洋協力理事会(NACC)」という仕組み。それは、ドイツと米国との協力関係の賜物であった。

ところが、このNACCはすぐさま難局に直面する。1991年12月20日に創設のための会合が開かれたとき、ソ連はまさに連邦消滅の危機に瀕していた。そして翌日の21日にソ連は解体、そして新たに12の独立国が誕生する見込みとなった。

同日、NACC創設会合に外相代理として出席したソ連の駐ベルギー大使は、ソ連最後の国際会議となったこの場にて、「ソ連は存在することをやめた」と明言、エリツィン大統領のNATO宛の親書を読み上げ、ロシアが「最終目標として」NATO加盟を希望することを読み上げた。

しかしながら、あわただしい時期であったため、わずか3カ月の間にNACCへの加盟を希望する国は、創設時の25カ国から34カ国にまで拡大。そうなると、もはやNATOは少数派となってしまった。

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