自民党が2012年に作成した憲法改正草案をみると、「天皇」を「日本国の元首」に変更し、国民の責務として「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」という条文を加えている。
そして、安全保障に関しては「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」とし、自衛隊とは性格の違う実力組織の構築をめざしているのである。
天皇を元首とし、国民に秩序を守れ、責務を果たせと強く求め、軍を設けて「戦争」のできる国にする。まるで明治憲法のイメージに戻そうとしているかのようだ。
このような憲法にすれば、国民を守ることができるというのだろうか。国連憲章の理念と乖離してしまうのではないか。
たしかに、国連の機能不全は深刻だ。安全保障理事会の常任理事国が当事者となって拒否権を振りまわすのでは、どうにもならない。改革をしない限り、国連憲章は空文化してしまうだろう。
しかし、だからといって国連をなくしていいかというと、もちろん「ノー」だ。
かつてフロイトはアインシュタインとの往復書簡にこう記した。「人間のあいだで利害が対立したときに、決着をつけるのは原則として暴力なのです。動物たちはみんなそうしていますし、人間も動物の一種なのです」。
本能として、人間には暴力性がそなわっている。人間は他人を犠牲にしてでも自らの欲望を充たしたいと願う存在だ。だからこそ、平和へのあくなき希求が求められる。
それなのに憲法が、国家統制を強め、武力行使の自制を弱める内容になっては、国民の自由と安全は覚束ない。とことん平和を希求し、国民の自由と権利を保障し、権力が暴走しないための縛りがあればこそ、人間の戦う本能に歯止めをかけることができるのだ。
ついつい人は過去の戦争の悲惨さを忘れ、目の前の脅威や欲望に感情を突き動かされて、敵対者をせん滅する方向に走る。プーチン氏の暴挙はまさにその一例である。そうした一部の破壊者に各国が合わせて、力と力がぶつかり合う世界に戻れば、際限のない軍事力競争と阿鼻叫喚が待っているだけである。
隣の核保有国に重ね合わせ、日本国民が警戒すべきなのは言うまでもないが、基本的には自衛力の強化や外交努力によって対応するしかない。
現行憲法は国民を従わせるためにあるのではなく、為政者を縛るためにある。明治憲法下の日本は、天皇の統帥権を悪用した軍部の暴走とメディアの追随によって、破滅への道を転げ落ちた。憲法改正で全てが解決するかのような議論は、幻想をふりまくだけだ。
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