ホンマでっか池田教授が告白。「歳をとって増えたこと」とは何か?

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歳をとって増えていくものといえば、白髪やシワの数など外見に関することに加えて「物忘れ」。特に有名人や古い知り合いの名前などの固有名詞は、喉元まで出かかってもなかなか引っ張り出せない場面が増えます。今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』では、今年75歳になる著者でCX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの池田清彦教授が、そんな日常の「歳をとった」と感じる出来事をユーモアを交えながら綴り、それでも「自我」だけは保っている人間の脳の構造の不思議について考えています。

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歳をとるということ

次の誕生日が来ると75歳になる。所謂後期高齢者である。年寄りになっても余り変わらないことと、激しく変わることがある。変わらないことの筆頭は自我である。「われ思うゆえにわれあり」で有名なデカルトは、自我は松果体に局在すると主張した。もちろんこの考えは現在では否定されているが、自我が脳のどこかに局在するという考えを支持する研究者は多い。脳科学者の澤口俊之は『「私」は脳のどこにいるのか』(ちくまプリマーブックス)と題する著書の中で、自我は前頭連合野に局在していると主張している。

もちろん、局在するという意味はスタティックに存在するということではなく、前頭連合野のダイナミックプロセスの結果生じるという意味である。脳は老化と共に徐々に縮退していくが、自我を司る部位はなかなか崩壊しないのであろう。私を含め多くの人は、昔の自分も今の自分も同じ自分だと思っている。

加齢に伴い、前頭連合野の神経細胞も多少は減衰するだろうし、それを構成する高分子は毎日入れ替わっているが、自我が不変のように見えるのは、このダイナミックプロセスがある幅の中で変動しても、それを同じだと看做すメカニズムが働くためだと思われる。考えてみれば、異なるものを同じだと看做すのは人類に与えられた特技である。言語はまさにそうだからだ。自我の発生と言語の発生はパラレルなのかもしれない。

自我はともかく、物忘れは確かにどんどんひどくなる。人の名前や山の名前といった固有名詞がなかなか思い出せないことがある。不思議なことに、同じように慣れ親しんでいる名前であっても、すぐに思い出せる名と、なかなか思いだせない名があるのはなぜだろう。

自宅の前の道を上って行ったどん詰まりに高乗寺という古刹があるが、代々の檀家の墓とは別に、新しく開発した墓地に、寺山修司と忌野清志郎の墓がある。私は寺山修司の名は昔から知っているし、忌野清志郎よりはるかになじみが深いが、忌野清志郎の名前はすぐに思い出せても、寺山修司の名前はとっさに思い出せないことの方が多い。

若い時はそういうことはなかった。特殊な固有名詞をなかなか思い出せないのは、何かトラウマでもあるのか、それとも固有名を格納している場所から、引き出して、言語化するプロセスがスムーズに働かなくなったのか、どちらかなのだろう。おそらく、私の場合はトラウマといった精神的なものとは関係なく、コトバの引き出し方に問題があるのだと思う。

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