「植民地ニッポン」の作り方。米国と自民売国政府は“よく働きよく従う”優良属国をどう実現したか?

 

米国からの「年次改革要望書」で日本の政策が決められてきた現実!

ざっと、「年次改革要望書」が登場する経緯を辿っておきましょう。

かつて「郵政民営化」を強行し、日本の郵政事業を滅茶苦茶にした小泉政権は、当時さかんに「構造改革」なるスローガンを打ち立てていました。

これも米国政府からの受け売りのセリフです。

そもそも、「構造」という言葉が、日本の規制改革や市場開放と結びついて現われたのは、「日米構造協議」からでした。

これは1989年頃から日米で交渉が始まり、1990年6月に当時の自民党・海部内閣が飲まされた、米国からの一方的要求を定めた協定でした。

プラザ合意(1985年)以降、ドル安誘導しても収まらなかった米国の対日貿易赤字を減らすため、日本は以後の10年間で公共投資に430兆円をバラ撒いて内需拡大に努め、国内規制をなくして、米国企業が日本企業と同等に競い合えるようにしろ――という命令内容でした。

このため、自社さ連立政権の村山富市内閣では、630兆円にまで投資額が膨らみ、日本の長期債務残高を急増させました。

内政干渉同然の内容にも関わらず、例によって政権忖度マスメディアは、一向にこのことを問題にしないばかりか、国民の知る権利さえも封印したのが印象的でした。

この協定が後に「日米包括経済協議」となり、「日米規制緩和対話」となり、やがて、2001年に「日米規制改革及び競争政策イニシアチブに基づく要望書の交換」というカタチとなったのです。

長ったらしい名称になるのは国民への「目くらまし」のためです。

これらは、当初から米国の「日本政府への命令」に他なりませんでしたが、「要望書の交換」という体裁でカムフラージュしながら、今日まで日本への指示・命令を行ってきたのです。

米国は、当初の構造協議では、自民党の土建族議員が喜ぶ公共事業へのバラ撒きを要求したものの、途中からは、バブル崩壊の後遺症だった金融機関の「不良債権処理」を優先させるべく、要求内容を変更してきました。

そしてその後は、実に細かく日本の各種規制についても口をはさみ、具体的要求をどんどん増やしていったのです。

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