もはや倒錯。ホンマでっか池田教授が指摘する「ビーガン」の傲慢

 

冒頭に紹介した本が攻撃しているのは、普通のベジタリアンではなく倫理的ベジタリアンと著者が呼ぶ人たちで、一般的にはビーガンと呼ばれる。ビーガンの主張はつづめて言えば、動物を殺して食うのは人を殺すのと同様な犯罪だということだ。日本では過激なビーガンはあまり聞かないが、フランスではビーガンの人口に占める割合は0.5%だという。フランスの人口は約6500万人なので、32.5万人もの人がビーガンということになる。

何を食うか食わないかは、人を食ったりしない限り基本的に自由で、ビーガンが動物を食わないのは本人たちの勝手であって、何の問題もないのだが、問題は一部のビーガンが肉食者を敵視して実力行使に出ていることだ。先の本によれば、2018年、フランスでは何軒かの肉屋がビーガンに襲撃されて、スプレーで落書きをされ、窓を割られ、血糊をまき散らされたりする事件があったということだ。

動物の命は人間の命と同様に貴いという反・種差別の考えは一部の欧米人に根強く、捕鯨は犯罪だと主張して、実力行使をも辞さない、シー・シェパードに通底するところがある。こういった原理主義者が次々に出てくるのは、一神教の社会の弊害なのだろう。正しい考えは唯一であると信じると、それ以外は全部間違いということになり、正義を守るためには手段を択ばずということになりかねない。

かつて、中絶に反対する人が、中絶手術を行っている医者を射殺した事件があった。命の至高性を主張して、反対する人の命を奪うことを躊躇しないのは、不思議と言う他はない。

『肉食の哲学』は議論が込み入っていて、余り分かりやすい本ではないので、私なりのビーガンに対する反論を以下に記す。まず「反・種差別」の考えは他の生物を食うことなしには生きていけない人間の生態を前提にする限り、必ず破綻することだ。ビーガンは植物のみを食べるというが、野生のものでない限り、人間が食べる植物は耕作地で作られている作物であることが多く、作物を食べる害虫を殺戮した果ての産物である。

牛や豚の命は守るべきだが、害虫は殺しても差し支えないというのは、種差別そのものである。どこかで守るべき命と守らなくてもいい命の線引きをしなければ、人はそもそも生きていけない。

一番合理的で多くの人が納得するのは人とそれ以外のすべての生物の間に線引きをして、人間は特別だとの考えである。もちろんこの考えにも超越的な根拠があるわけではないが、それ以外の所での線引きはすべて恣意的になって、合理的に根拠づけることは不可能だ。

さらに耕作地は、本来は自然生態系で、そこを開墾して作物を栽培しているわけで、もともとそこに棲んでいた多くの野生動物を結果的に死に追いやった果てに作られたものだ。ビーガンは虫食いの痕がない穀物や野菜を食べて、動物の命を守っているという幻想に耽っているのかもしれないが、彼らが食べる作物を育てる過程で、どれだけ多くの動物たちが犠牲になったかについては想いが及ばないのであろう。

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