「ハートカクテル」に酔いしれて。漫画家・わたせせいぞうが今も“手描き”にこだわるワケ

2022.06.16
by gyouza(まぐまぐ編集部)
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1983年から1989年まで漫画雑誌『モーニング』(講談社)に毎号カラー4ページで連載され、カリスマ的な人気を誇った漫画「ハートカクテル」。作品に描かれた、まるでアメリカ西海岸やリゾート地を思わせるオシャレな世界観と映画のような男女の恋愛物語は、当時の若者たちの憧れの的となりました。のちにアニメ化やドラマ化もされるなど、日本中で一大ブームを巻き起こした「ハートカクテル」の作者が、今も第一線で活躍する漫画家・イラストレーター、わたせせいぞうさん(77)です。6月16日から大丸東京店にて「わたせせいぞう展 〜ハートフルな東京日和〜」が開催され、全6冊が刊行予定の『わたせせいぞう自選集 ハートカクテル』(小学館クリエイティブ)の新シリーズ、ミュージック&クルーズ「サンライズ」編も発売されたわたせ先生に、漫画家をめざしたキッカケから「ハートカクテル」制作秘話、そして大好きな音楽や近況まで、いろいろとお話をおうかがいしました。(於:わたせせいぞうギャラリー白金台  港区白金台5丁目22-11ソフトタウン白金1階)

突然開いた「漫画家への扉」

──本日は、お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。わたせ先生といえば、40代以上の人にとって漫画「ハートカクテル」の印象が強くあります。洗練された画風のみならず、漫画の中に登場する街中の看板や小物まで、すべてがオシャレで新鮮でした。そもそも、わたせ先生が漫画家を志そうと思うようになったきっかけは何だったのでしょうか?

わたせせいぞう(以下、わたせ):本日は宜しくお願いいたします。実は、もともと漫画家になろうとは思っていなかったんですよ。ただ、小さい時から絵を描くことは好きで、幼稚園の年長から小学一年生にかけての2年間、絵の家庭教師をしていた父の友人から絵を習っていました。父が画家志望だったので、私を絵が好きな子供に育てたかったんでしょうね。そのときに、基礎となる物を観察することや遠近法を学んだんです。その後もずっと絵を描くことが好きで、絵のコンクールがあると応募して入賞したりして、先生も絵を認めてくれました。それが小、中学生の頃です。

ところが、高校生になったときに美術部へは入らず「書道部」に入ったんです。なぜかというと、「前衛書道」というものを見たときに「これは絵だな」って思ったんですよ。絵のような感覚で、白と黒の領域の比率があることが面白くて。高校生の頃は、漫画家よりも新聞記者に憧れていました。当時は文章を書くことの方が好きだったんですね。早稲田大学に進学した後も小説の同人誌を作ったりして、文章を書くことに興味がありました。だから漫画を描くということはあまり考えていなかったんですね。

──では、どのタイミングで「漫画家」になろうと決心されたのでしょうか?

わたせ:大学を出たあと損害保険会社に就職したんですが、まだ心のどこかで新聞記者のような「モノを作る世界」に憧れていたんですね。そして入社して3年目くらいのときに、直木賞作家の永井路子さんの講演を聞きに行ったとき、その途中休憩で永井先生と10分くらい直接お話しできる機会があったんです。そのとき僕は、短い時間にいきなり小説を見せるのは失礼だと思って、自分で書いていた小説は持っていかずに、ケント紙2枚に描いた擬人化された猫の4コマ漫画をお見せしたんですよ。そうしたら永井先生が「渡瀬さん、漫画家になりたいんだ!」と言われまして。そこから「漫画家への扉」がパッと開いたんです。

──そのとき小説をお見せしていたら、まったく違った人生になっていたのかもしれませんね。ここで初めて「漫画家」への道を意識されたということでしょうか?

わたせ:そうですね、「そういう道もあるのか」と。もちろん絵や漫画を描くことは小さな頃から好きでしたよ。最初は永井先生に自分のことを印象づけるためのサプライズとして持っていっただけなんです。でも、永井先生にそう言われて初めて漫画家ということを意識しました。その後、永井先生が雑誌社を紹介してくださって、サラリーマンとして働きながら、描いた漫画を持ち込んだりするようになりました。雑誌社からは「必ず賞に応募した方がいいよ」と言われたので、応募した作品で新人賞を獲ったりするようになったんです。

──1974年に小学館の「第13回ビックコミック賞」に入選されていますが、これは漫画を描き始めてからどのくらい経った頃だったのでしょうか?

わたせ:あまり間を置かずに入選しましたね。その前になりますが、実業之日本社の『週刊漫画サンデー』という漫画雑誌の編集長が永井先生と知り合いで「まず彼のところへ行ってごらん」と紹介されました。そこで『ギャートルズ』の園山俊二さんを紹介されて、線の引き方とか「漫画のイロハ」を教えてもらったんです。

──あの園山俊二さんから教わったんですね。その後、数多くの作品を発表することになりますが、影響を受けた作品や漫画家さんはいらっしゃいますでしょうか?

わたせ:子供の頃に好きだった漫画家で言うと手塚治虫さん、石ノ森章太郎さんの作品ですね。もう一人、おませだったので、エロティックな女性の漫画で有名な小島功さんの漫画が好きでした。大人になったときに「小島さんのような線で女性を表現できればなあ」と、漠然とした憧れを抱いていましたね。

──小島功さんの漫画は「これぞ大人の漫画」という感じで、女性のボディラインを本当に美しく描かれていましたよね。わたせ先生が漫画家として作品を発表し始めた当時は、損害保険会社のサラリーマンと漫画家という「二足の草鞋(わらじ)」生活だったと聞いています。その頃の大変だったエピソード、逆に嬉しかったエピソードは何でしょうか?

わたせ:営業部の勤務でしたから、「毎月どれだけ予算を達成しているか」という評価なんですよ。「二足の草鞋」生活が始まった頃は、まだ普通の社員だったんです。ところが、『モーニング』で「ハートカクテル」の連載が始まった1983年の少し前くらいから、東京の足立支社長を任されるようになりました。そうなると急に責任が重くなって大変でしたね。上司に「漫画なんか描いているから予算が達成しなかったんじゃないか?」と言わせたくなかったので、プレッシャーがかかりました。「成績が落ちたら漫画を描くのはやめろ」と、パワハラみたいなことも上司に言われていましたから。精神的なハードさもありましたが、「ハートカクテル」の連載が始まると身体的にも辛かったですね。月曜から金曜までは会社の仕事に集中、しかも営業マンですからお得意先との飲み会やカラオケまで行くことも多かったんです。そして、会社が休みの土日だけ漫画の仕事をすることにしていました。ところが、平日も休日も両方の仕事がタイトになってきまして、赤信号を待っているときに「この間だけでも少し寝られるかな」と思ってしまうくらい、体力的にも限界がきていたんです。

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