見え隠れする役人の陰謀。明治政府が「グレゴリオ暦」を導入した理由

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日本を始め、世界の多くの国で採用されている「グレゴリオ暦」。我が国では明治5年の11月に改暦が発表されましたが、その裏にあった「政府の意図」をご存知でしょうか。今回のメルマガ『富田隆のお気楽心理学』では著者で心理学者の富田さんが、その裏事情を解説。さらに「グローバルスタンダード」の怪しさについて考察しています。

明治6年に新暦へ変更した日本、その理由は「合理性」ではなかった。グレゴリオ暦はかなり“怪しい代物”だ

この便りが届く2月8日は、旧暦なら師走の29日、もうじき旧暦の新年です。梅の花の咲き具合から見ても、陽の勢いから見ても、旧暦の正月、つまり、今頃の方が「新春」にふさわしいとは思いませんか?

こうしたことを言い出しますと、よく「旧暦が太陰暦で、新暦が太陽暦だから」そして「太陽暦の方が合理的だったから」というような説明を始める人がいますが、それは半分だけの真理です。

確かに、太陽暦の「グレゴリオ暦」では1年はちゃんと365日、ところが、旧暦は基本が太陰暦で月齢をもとに1カ月を決めていましたから1年は354日になってしまいます。

これでは、11日ほど1年が短くなってしまい、実際の季節からずれてしまうので、約3年に一度「閏(うるう)月」を加えることになりました。つまり、江戸時代などは、1年が13カ月になる年もあったのです。これは、「太陽暦」をもとにした調整だったわけで、私たちのご先祖様が使っていた旧暦は、月の満ち欠けをもとに作成した単純な太陰暦だったのではなく、これに季節の変化を反映させた太陽暦を組み合わせた「太陰太陽暦」だったというわけです。

ちなみに、今でも使われている「大寒」とか「立春」「啓蟄(けいちつ)」といった季節の呼び名は「二十四節季」とよばれる暦によるものですが、これは太陽暦なのです。太陽の日長変化をもとに、1年を春夏秋冬に分け、それぞれをさらに6分割することで「二十四節季」が構成されました。江戸時代以前のご先祖様たちは旧暦と「二十四節季」を合わせて使っていました。

それにしても、1年を「閏月」で調整するなどというのは、確かに、ちょっと面倒ですよね。ですから、明治政府が「合理性」を理由に旧暦から「グレゴリオ暦」に切り替えたというのも分からないわけではありません。

ただ、太陽暦が合理的であるにしても、グレゴリオ暦の新年が1か月も「前倒し」であることには眼をつぶってしまったのです。

確かにグレゴリオ暦は「太陽暦」には違いないのですが、その新年が「春」から始まらないのは、どう考えてもおかしいと思いませんか?その点から見ても、グレゴリオ暦の「由緒正しさ」には疑問が残ります。1年が春から始まるという点では、旧暦の方に「正統性」があるのではないでしょうか?

今年も「立春」は2月4日でした。この頃から太陽暦の春が始まるわけですが、旧暦の新年が始まるのも、今年は2月の10日です。つまり、年賀状などに書く「新春あけましておめでとうございます」の「新春」とは、本来なら今、この季節の話なのです。ですから、旧暦の方が、実際の季節に合っています。7月7日の「七夕祭り」だって、旧暦の方がピッタリきます。グレゴリオ暦だと、まだ梅雨の時期なので、雨ばかり降っていますから、織姫と彦星はいつまで経ってもデートできません。

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