見え隠れする役人の陰謀。明治政府が「グレゴリオ暦」を導入した理由

 

もうお分かりですね。日本は明治6年に、新暦に変えたわけですがその理由は必ずしも新暦の方が合理的だったからではないのです。まあ、多数決みたいなもので、世界を支配していた国々がグレゴリオ暦を使っていたので、その「グローバルスタンダード」に合わせたというだけの話です。要するに、ヨーロッパ列強と「共通の暦」を使っていないと、貿易やら商取引やらで、何かと不便だったからなのです。

しかし、商売上の便利さを棚に上げて考えると、グレゴリオ暦はかなり怪しいしろものです。なんせ、季節と合っていないのですから。ですから、農業従事者や漁業従事者など、自然を相手にしている人たちは、今でも「二十四節季」を併用しています。春夏秋冬季節の移ろいを知るためには、グレゴリオ暦は役に立たないからです。

なぜでしょう?グレゴリオ暦のもとになっているのは古代ローマの暦ですが、もともとの暦は農業のために作られたものでしたから、種まきの時期である現在の3月が1年の初めになっていました。ところが 紀元前153年に暦が改訂されました。現在の1月1日から新しい年が始まるように変えられたのです。

これは多分に政治的な理由からでした。当時の執政官が就任するのが1月1日であったため、それに合わせて新年が始まるように変えてしまったのです。本来、農業のために使われていた暦を、役人が勝手に奪い取ってしまったわけです。これが、暦というものが自然の営みや季節からずれてしまった原因なのです。

このように、グレゴリオ暦のいかがわしさの陰には古代ローマの役人どもがいたわけですが、日本における明治6年の「改暦」の陰にも、役人の陰謀が見え隠れしているのをごぞんじでしょうか?

列強のグローバルスタンダードに合わせるというのが改暦の主な理由だったのには間違いないのですが、これに加えてもうひとつ、明治新政府の何ともせこい経済的理由が隠されていたのです。

この改暦が発表されたのは、明治5年の11月でした。旧暦と新暦には1カ月のズレがあります。ですから、改暦によって、明治5年の12月、正確には12月3日以降は無くなってしまったのです。つまり、従来の旧暦なら明治5年12月に相当する月が新暦の明治6年1月に変わってしまうことで、ほぼ1カ月分が消えてしまったというわけです。

これによって、当時、財政難に陥っていた新政府は、1カ月分の公務員給与を支払わずに済みました。大熊重信閣下(当時の中心人物)のご勇断、お見事!

しかも、これにはまだオマケがあります。旧暦のままなら明治6年には「閏月」があり、13カ月分の公務員給与を支払う必要があったのですが、これも新暦に改暦したおかげで、1カ月分減りました。改暦により、新政府は合わせて2カ月分の公務員給与を踏み倒すことができたのです。

まあ偶然の一致でしょうが、グレゴリオ暦には、いろいろとお役人やら政治やらの事情が絡んでいるようです。

暦に限らず、グローバルスタンダードなどというのはその程度のものであり、要は、「皆が使っているから、それに合わせた方が便利」というだけのことです。

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