『リングにかけろ』の大ヒットが示す「人類共通の無意識」
わしは、戦闘漫画は嫌いだが格闘漫画は好きだ。ボクシングとかプロレスとか空手とか、リアルな格闘技の要素を入れた漫画は、どんな練習をして、どんな技術を修得して強くなっていくのかといった理屈がわかる。
だが、なぜ強くなるのか全くわからないけれど、戦闘がエスカレーションして、果てしなく強くなっていくというジャンプ漫画の抽象的な戦いは、わしがジャンプにいた当時から理解できなかった。
わしがジャンプで『東大一直線』を描いていた頃、同時に『リングにかけろ』という漫画があって(先日のゴー宣DOJOでは『聖闘士星矢(セイントセイヤ)』と言ったが、『東大』と同時期にやっていたのは『リングにかけろ』だそうだ。同じ作者で似たようなものだから区別がつかないのだ)、わけのわからない技の名前を叫んだら、見開きの画面の背景が突然宇宙になって、敵が遠くに吹っ飛んでいくというのを見て、いったいこれは何が行われているのか、なぜこれが強いのかといったことがさっぱりわからなくて、とてもじゃないが、わしにはこんなもの描けるわけがないと思ったものである。
しかし、それも読者の望みなんだからしょうがない。『リングにかけろ』も最初は普通のボクシング漫画だったが人気が低迷し、わけのわからない技の応酬を始めたら人気が爆発したという経緯がある。
みんな戦いが好きなのだ。戦闘漫画・好戦漫画が大好きなのだ。
人々の無意識の中には好戦的な嗜好があるという構造は、世界中変わらない。それは、人類の無意識だといえる。
それにしても不思議な話なのだが、『戦争論』を描いて危険で好戦的な漫画家というレッテルを貼られているわしは、戦闘漫画が苦手なのだ。
その一方で、人類の無意識に潜む戦闘意欲を刺激する漫画を描いた鳥山明は「好戦的な漫画家」と言われることなど一切なく、全然非難されない。それどころか、「勇気を与えてくれた」と称賛までされるのである。 これって、おかしくないだろうか?