「オモウマい店」がその象徴。見返りを期待しない“贈与経済”がすべての人を幸せにする

Buta,Don,(pork,Rice,Bowl)
 

昨今あらゆるシーンで声高に叫ばれる「生産性向上」の重要性。しかしそれだけで人は幸せになることができるのでしょうか。今回のメルマガ『j-fashion journal』ではファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、原価割れしようとも客に過剰とも言えるサービスを提供する「オモウマい店」を例に挙げ、「贈与経済」について解説。なぜ「オモウマい店」の店主たちから愉しみが伝わってくるのかについて考察するとともに、見返りを期待しない贈与経済の長所を説いています。

※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです

贈与経済による豊かさと幸せ

1.義理と人情と贈与経済

贈与経済とは、見返りを求めない贈り物による経済活動だ。

通常の経済は、商品やサービスを貨幣と交換することにより成立している。資本主義経済は、産業革命によって確立したと言われている。産業革命は工場や設備投資、多くの労働者が必要であり、それらを確保するには多くの資本が必要だった。そこから、多くの人から投資を集め、利益を投資に応じて配分するという仕組みが出来上がった。資本を必要とするビジネスにおいて、贈与経済が入り込む余地はない。

農業を資本主義的に考えると、プランテーションになる。プランテーションとは、宗主国に商品作物を輸出することを目的とした大型農園であり、奴隷労働に近い形態で運営されていた。

人々をお金で縛りつける仕組みが産業革命の工場であり、プランテーションだった。人々は自給自足経済から切り離されたのだ。

江戸時代の農業は、領主に年貢を納めるための米作を行っていたが、自給自足のための作物も栽培していた。そして家族だけでは食べきれない余剰の農産物は市で販売することもあった。地主農家の場合、ある意味で自立した経営者でもあったのだ。

同様に、職人も自立していた。基本的に受注生産であり、経済は国内で循環していた。

武士は年貢を米で受けとっていたので、貨幣経済に組み込まれることはなかった。もし、武士が貨幣で給料を受け取り、年貢ではなく税を徴収していたら、もっと早く資本主義が生れていただろう。

しかし、幕府は大名に経済力を持たせなかった。むしろ、反乱を起こす経済力を削り取るように、参勤交代などの制度を整備したのだ。

貨幣経済の発達により、商人が経済力を持つようになったが、幕府の権力を維持するためには、過度に経済依存を強めることは危険だった。経済の結びつきよりも、主従関係、義理と人情など人間同士の結びつきを重視したのである。

2.人と神の関係の違い

キリスト教では、神と契約が行われる。人は契約を守ることで、神から加護を得る。

日本では神と人とが契約することはない。神は人の力が及ばない対象であり、契約が成立しない。神は自然そのものであり、恵みも与えれば、災害も与える。人は自然と契約することはできないのだ。

日本の神と人間の関係は、贈与経済がベースになっている。神は自然の恵みを人に与え、人は神のために祭を開き、神を信仰する。神は、何かを人に与えることに、見返りを求めない。人も神を信仰するのに見返りを求めない。契約ではないからだ。

契約が先行する取引において、商品の価格を勝手に動かしてはならない。相手が誰でも、商品の価格は変わらない。

日本の商取引は、相手によって替わることがある。これは商取引の基本が契約ではなく、贈与だからではない。店は客に商品を贈与する。客は商品に見合った金を贈与する。代金は互いの関係で変化する。値切ったり、値引いたりする行為は、人間関係を確認しているのだ。

日本では契約を結ぶ場合でも、金額は最後に決まる。相手の顔色を見ながら、阿吽の呼吸で決まるのだ。最初に価格の話をすると、がめつい人、卑しい人と思われてしまう。

だから、価格を提示する正札商法は、公平な契約のためというより、値段交渉を簡略化することに目的があったのだと思う。

日本では通常の商取引であっても、贈与経済が内包されているのではないだろうか。

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