瀕死のイギリス。EUよりも先に「UK連合王国」がバラバラの危機へ

 

幾重にも錯綜する矛盾

何が何だか分からなくなるのは、英国とEUとを取り巻く問題が余りに錯綜していて、幾重にも矛盾が重なってもつれ合っているからだろう。

まず1つには、EU自身における理想と現実との間の矛盾がある。EUの本質は、あくまで「不戦共同体」への人類史上初めての壮大な実験というにある。

16世紀以来、休むことなく戦乱に明け暮れて、20世紀に至って2つの世界大戦の主戦場となって勝者と敗者の別のない皆殺し戦争を体験したヨーロッパは、1951年のECSC(踏襲石炭鉄鋼共同体)に始まって、58年のEEC(欧州経済共同体)、67年のEC(欧州共同体)、93年のEU(欧州連合)、99年の統一通貨ユーロの導入と、一歩ずつ踏みしめるように国家の枠を超えた人々の融合を深化させてきた。それは、遠い将来の「欧州合衆国」という理想を見据えて、国家エゴイズムのぶつかり合いという近代国民国家の「業」をいかにして克服していくかを賭けた、覚悟の上の悪戦苦闘のプロセスだった。

経済は否応なくグローバル化し、人も物も金も国境を超えて自由に行き来することを求め続け、それによって、「国家主権がすべて」という近代的な国民国家の観念は掘り崩されていく。その時に、アメリカ的、ないしはアングロサクソン的な新自由主義は、国家などもはや役に立たず、「頼るものは個人しかない」というアナーキーな超個人主義に無責任に逃げ込んで行く。他方では、それに反発して何が何でもこれまでの国家主権を防護しようとする反動的な国家主義もまた強まらざるを得なくなる。その狭間にあって、国家の野放図な解体を傍観するのでなく、かと言ってただ昔の姿に戻そうと無駄な努力をするのでもなく、どうしたら近代的な国家主権の機能を、超国家=EU、従来通りの国家、地域・地方の3次元に段階を追って上手く振り分けて、分権していくことが出来るか、というのがEUの試みである。

たぶん、人類が国家エゴイズムを超克して戦争のない世界を実現できるとすれば、この国家主権を3分割するコントロールされたプロセスを進めるしかない。その意味で、英国のコラムニスト=ロジャー・コーエンが離脱選択について「個人的な喪失『感』」を口にし、「ヨーロッパ『統合』は、欠点はあっても、私の世代の夢だったのだ」(6月28日付NYタイムズ)と苦しげな言葉を吐いているのに、私は同感する。こんなことがあったくらいで、EUの理想とそれへ向かっての悪戦苦闘を意味のないものであるかに言うことは許されない。

ところが、そこで問題は、実はEU自身が、アメリカ流金融グローバリズムに安易に同調して、西谷修=立教大学特任教授の言葉を借りれば「セミ・グローバリゼーション」(7月1日付東京)の道へと逸れてきてしまったことである。

EUは原理的に言ってグローバリズムへの巧妙な防波堤でなければならないというのに、そうではなしに、ドイツの金融的強大さを背景にしてセミ・グローバル化してしまったのでは、EU加盟国間でも各国内でも格差が深刻化するのは当たり前で、救いを見いだせない。

フランスの皮肉屋エマニエル・トッドは、「新自由主義は突き詰めれば『国はない。あるのは個人だけ』という超個人主義。英米はそれに耐えられるからこそそれを他国にも押しつけてきたが、英米でさえ社会の分断・解体が進行し、低所得者層にしわ寄せがきて、中間層にも及び、『あるのは個人だけ』という考えに耐えられなくなっている。新自由主義の夢は悪夢に変わりつつある」(6月28日付読売)と語っていて、その通りだが、EUがそのグローバリズムの代案となる社会民主主義的な経済政策を示しきれずにきたことが致命的にまずいのである。

こうなってみると、米英流にせよEU風にせよ金融資本主義のふしだらと一貫して距離を置いてきた北欧福祉国家群のほうが遙かに上手くやってきたとも言える訳で、そこに、EUのそもそもの理想はよかったけれども現実の到達点はそこから酷く外れているという現状が浮き彫りになっていると言える。

print
いま読まれてます

  • 瀕死のイギリス。EUよりも先に「UK連合王国」がバラバラの危機へ
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け