日本と台湾の「仰げば尊し」な関係を生んだ、教育家・伊沢修二の半生

 

六氏先生の遭難

翌明治29年正月、伊沢が講習員(教員)の募集のために帰国している間、留守を守る楫取道明以下、6名の日本人教師は台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、生徒らとともに山を下りた。前夜から抗日ゲリラの騒ぎが伝えられており、一部の生徒は危険だと止めたのだが、楫取はこう答えて聞かなかった。

この危難の時にあたり、文力では敵に抗することのできないことを知って若しこれを避ければ、臣子の道を失することになる。我等の命運は天に任せるほかはない。すべてを吾らの職務のために尽くし、職務と存亡を共にするのみである。

船着き場に着いたが、前夜来のゲリラ騒ぎで船がなかった。やむなく、楫取等は生徒を解散させ、一度学堂に戻った後、士林の警察署に合流すべく再び山を下りる途中で、百余名のゲリラに遭遇し、防戦空しく惨殺された。ゲリラ等は日本人の首で賞金が貰えるとの噂を信じて、6人の首級をあげ、所持品・着衣を奪い、さらに学堂に上って略奪に及んだ。

故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば

難を知った伊沢は悲嘆にくれたが、今日のように簡単に戻れる時代ではない。やむなく日本で講習員募集の任務を続けた。2月11日の講演で伊沢は六氏遭難について次のように語った。

さて斯く斃(たお)れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って教育をする人は、此の度斃れた人と同じ覚悟を以て貰わねばならぬと信じて居ります。如何となれば、若(も)しや教育者と云うものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話である。

 

然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来やうと思います。

この事件の前から、伊沢は次のような発言をしていた。

台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく、甚だ多い)の精神を費やし、数千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる。

この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精神」と呼ぶようになった。後に芝山巌神社が創設され、台湾教育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年時点では330人が祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。

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