日本と台湾の「仰げば尊し」な関係を生んだ、教育家・伊沢修二の半生

 

最初の生徒たち

伊沢は、6月26日、台北・北郊の士林の街にある小高い丘・芝山巌にある廟を借りて、学堂とした。地元の有力者を集めて「自分たちがここに来たのは戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもない。日本国の良民とするための教育を行うためだ」と説いた。地元民たちは半信半疑ながら、10代後半から20代前半の子弟を6名を出してくれた。生徒の一人、16歳の潘光楷(ばんこうかい)は、後に次のように書いている。

最初の教室は芝山巌廟の後棟楼上に設置せられ、余は此教師の一人と起居を共にしたり。…

 

超えて11月16日、甲組生(第一期募集の6人)は4箇月の講習期間満了となり、樺山総督・水野長官・台北県知事、その他官紳臨場(高官名士の参加)の栄を得て修業証書授与の式典を挙げらる。斯(そ)の時海軍々楽隊数十名を以て盛んに勇壮なる軍楽を吹奏せられ、余等は驚喜将(まさ)に狂せん計(ばか)りなりき。

学堂では日本人教師と台湾人生徒が同じ部屋で起居・食事をともにし、日本語教育だけでなく礼儀作法なども含めた全人教育の場とされていた。生徒全員がすでに漢文の素養があったので、短期間の速習で日本語の習得を終えた。わずか6人の修了式のために数十名の軍楽隊が門出を祝ったのは、芝山巌での教育を見て感銘を受けた角田海軍局長の配慮であったようだ。

潘光楷は、後に士林街の街長を務め、さらに州議会議員となっている。卒業生は各地区に設けられる学校の教師や、公務員として巣立っていった。

我れと彼れと混合融和して

伊沢は、海外領土での教育事例を調べるために、フランスのインドネシア教育局長に話を聞いたことがあった。フランスはインドシナを統治する際に、フランス語でフランス風の教育を実施したが、住民の抵抗にあって失敗したという。

またあるイギリス人は伊沢に助言して、植民地の住民に教育の必要はない、なまじ教育を施せば、本国に反攻する者を育てることになる、と語った。植民地を経済的に収奪するなら、この愚民政策がもっとも効果的・効率的なやり方であろう。

伊沢は、台湾においては、フランスのように宗主国の言語・文化を押しつけるのではなく、またイギリスのような愚民政策でもなく、第三の「混和主義」を採るべきである、と主張した。これは「我れと彼れと混合融和して不知不識知らず知らずの間に同一国に化して往く仕方」である。台湾は日本が経済的な収奪を行う植民地ではなく、北海道や沖縄、樺太と同じ「新附の領土」であり、その人民は民族こそ違え日本国民同胞として遇するべきという考え方が根底にあった。

それにはまず日本人と台湾人が相互の言語を学んで、互いを理解していくことから始めなければならない。また孔子廟など、台湾人の尊崇する文化・宗教を尊重する事を方針とした。

興味深いのは伊沢がこの時点ですでに「台湾人」と呼び、「遼東あたりの」清国人とは区別している事である。そして台湾人は人種的・文化的・気風的にも日本人に近く、まだ西洋文明を知らないだけで、その能力は日本人と同等である事が混和主義を可能にする前提をなすと考えた。統治開始後10年を経た明治38年時点で、台湾人の日本語理解者0.38%に対して、台湾在住の日本人の台湾語理解者は約11%。伊沢の混和主義は着実に実現されていったのである。

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