日本と台湾の「仰げば尊し」な関係を生んだ、教育家・伊沢修二の半生

 

母との今生の別れ

伊沢が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな反響があり、800名もの応募があった。しかし芝山巌事件の悲報に朝野は大きな衝撃を受けて、500人もの辞退者が出た。一次試験は各県の郡役所で行われ、その合格者を東京で伊沢自身が面接して、45名を採用した。

その一人に京都府舞鶴近くで小学校校長をしていた坂根十二郎がいた。坂根は22日午後10時に二次試験の知らせを電報で受け取ったが、京都駅まで25里を歩き、そこから汽車で上京する。試験日の25日に着くには翌朝には出発しなければならないので、学校関係者には書き置きをし、郡長を深夜に訪れて許可を得、それから家に帰って母に許しを乞うた。母は神棚から守り札を出し、これを肌身につけて「神明の加護によりて息災延命なれ」と言った。七十を過ぎた母とは今生の別れになると思うと、涙が止まらなかった。

親戚一同とも別れの杯を交わして23日未明に出発、夜11時に京都駅に着いて夜行汽車で上京、24日午前11時に新橋駅に着いた。25日に2次試験があり、その翌日、合格発表があった。伊沢は芝山巌事件を詳しく説明して、心配な者は取りやめても差し支えない、それでもなお進んで行くことを希望する者は申し出るようにと言うと、合格者45名全員が台湾行きを希望して、伊沢を感激させた。

坂根はすでに小学校長の身で、生活のためなら、わざわざ母親と永久の別れをしてまで危険な任地に行く必要はなかったはずである。その動機として、学校関係者に残した書き置きには次のように述べている。

台湾島新附民を教育すべく、之が教員を募集せらるるに会す、せめてはその末席に加り以て奉公の万一を尽くさん事を期せんとす。

新領土・台湾の地に近代教育を広めて、その「新附の民」を等しく日本国民として迎え入れようとすることは、当時の国家的大事業であった。その一端を担おうという「奉公の精神が坂根らを動かしていた。

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