日本統治時代に学べ。台湾の若者はなぜ「日本」を懐かしむのか?

 

東台湾は日本時代に入ってから本格的に開発が進められました。そのシンボルのひとつが吉野村です。吉野村ができる前までは、原住民(アミ族)の数戸があっただけでしたが、吉野村ができてからは、まるでかつての江戸の町さながらの様相にまで発展したといいます。

このような「王道楽土」としてのユートピアは、日本が占領・統治したアジア東方部で数々生まれ、戦乱や内戦から逃れてきた人々の駆け込み寺となりました。しかし、そうした美談も戦後はマスコミによって「虐殺」や「三光」などというウソで隠蔽され、日本の戦争犯罪として流布されるようになってしまいました。情報操作が難しいネット時代の今こそが、真実を究明するいいチャンスです。

日本統治時代、吉野村の日本人たちはこの吉野布教所を心の支えに、厳しい環境の中で生き抜いてきました。東台湾への移民について語る際、最も重要な登場人物がいます。以前のメルマガでもご紹介した賀田金三郎です。

彼は大倉喜八郎の大倉組の台湾支社総支配人として台湾へ渡り、その後賀田組を設立し、東台湾の鉄道、道路の敷設、銀行、郵便事業の創設、学校や病院などの建設と、あらゆるインフラ建設に貢献した人です。しかも、それら事業はすべて民間事業として行いました。賀田の死後、後藤新平に「賀田君の働きがなければ台湾の近代化は成し得なかった」と述べさせたほど、彼の功績は大きいものでした。

そんな日本統治時代の東台湾で生き抜いてきた日本人たちのことについて描いた映画『湾生回家』は、日本では岩波ホールや映画祭で上映された程度で、あまり話題にはなりませんでしたが、台湾では若者世代を中心に多くの感動を呼びました。日本統治時代を知らない台湾の多くの若者たちが、この映画を見て涙を流したといいます。

そうした日台の交流秘話も、生き証人として歴史を語り継いできた戦中世代がいなくなりつつある今、だんだんと消え去りつつあります。書物や資料での保存も乏しく、すでに消失して探しようのない過去もたくさんあります。

東日本大震災以来、日台間に流れる歴史と絆の深さにスポットがあてられ、日台の若者の間にそうした認識が広がってからというもの、互いに若者の観光客が増加の一途をたどり、より良好な友好関係となっている今、日台の各自治体も互いを意識したイベントや友好都市協定締結などを行っています。

そのひとつとして、今回の花蓮件文化局による七五三イベントがありました。建立101周年を迎える慶修院(かつての吉野布教所)で、和服を着て寺院を訪れた子供たちに「千歳飴」が贈られたほか、日本民謡や和楽器のパフォーマンスが披露されました。花蓮県の粋な図らいですね。

101歳迎えた寺院 祝賀イベントで「七五三」/台湾

桃園市では今年9月に日本統治時代の土俵を復元し、11月18日には台湾人に相撲をよく知ってもらうために日本と台湾のマスコットキャラクターが相撲で対決するというイベントを開催しました。日本からは千葉の「チーバくん」や成田市の「うなりくん」などが参加したそうです。

台湾と日本のマスコットキャラが相撲 復元された日本時代の土俵で

鄭文燦・桃園市長は、「日本で900年以上も前から発展し続けた相撲は力と知恵を融合させたスポーツだ」と紹介し、来年7月に桃園市で50を超える国々の選手が集まって世界相撲選手権大会が開かれることを告知、「ぜひ観戦に訪れて相撲や日本文化の魅力に触れてほしい」と述べました。

外国都市の市長が日本文化の魅力をここまで力説するというのも、台湾ならではのことでしょう。台湾で日本文化の再発見、再評価と発信が大きなブームとなっています。

逆に日本でも、なかなかユニークな台湾人向けのイベントがありました。広島県の呉市が、呉という名字を持つ台湾人に呉市の観光大使にならないかと呼びかけるイベントです。これは台湾のニュースでも大きく報道されたほど、台湾では話題になっていました。

名字が呉で台湾在住なら誰でも応募ができ、当選者には3泊4日の呉市観光旅行が贈られます。観光大使としての使命は、呉市から発せられる情報を自身のFacebookやインスタなどを駆使して台湾人に向けてどんどん宣伝するというもの。呉市は軍港で知られる地域であり、気候や街のあり方が基隆に似ていると台湾では言われています。

姓吳嗎?逾8500人搶當日本吳市觀光大使 抽選26日截止

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