都の誇りかけ。平安神宮と「時代祭」を作り上げた京都人の心意気

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美しい庭園と京都三大祭りのひとつ「時代祭」で名高い平安神宮。その名から、平安時代に作られたと思われがちですが、創建は明治時代。ではなぜ当時の京都の人々は、平安神宮を作り上げることに心血を注いだのでしょうか。 今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者で京都通の英学(はなぶさ がく)さんが、平安神宮の魅力や創建時のエピソードについて紹介しています。

平安神宮 令和に蘇る平安京

平安神宮が建つ岡崎公園周辺は、美術館や文化会館などが立ち並ぶ文化の中心地です。今回は平安京を現在に伝える社殿と明治時代の名作庭家7代目・小川治兵衛が20年かけて育んだ神苑の魅力に迫ります。

平安神宮は794年に都が平安京に移されてから1,100年目を記念して1895明治28年に創建されました。京都の中ではかなり歴史の浅い神社です。明治時代、天皇が東京に引っ越してしまうと京都は衰退しそうになり今まで経験したことのないピンチに陥ります。そこでなんとか京都に活気を取り戻そうという機運が高まりました。そんな京都人のプライドにかけた機運を追い風に建てられたのが平安神宮です。平安神宮に行ってまず感じて頂きたいことは、当時の京都人の心意気です。

平安神宮が創建された経緯

創建当時京都の町は幕末期の戦乱により荒廃していました。また、明治維新により首都機能が東京へ移ってしまい、京都の人々の心に大きな穴が空いたような状態でした。そんな中、京都市民の思いが結集し、平安遷都から1,100年の節目の年に内国勧業博覧会の誘致に乗り出したのです。これか平安神宮の創建へとつながっていった流れです。平安神宮の社殿は内国勧業博覧会のメインパビリオンとして造られた建物が前身なのです。

東京遷都によって打撃を受けた京都は次々と近代化に向けて復興策を打ち出しました。もっとも代表的なものは、琵琶湖疏水の開削事業で、それに伴う発電所の建設です。このおかげで京都の街中に路面電車が沢山走るようになったわけです。そして、次なる復興策として平安遷都1,100年祭」という記念イベントを企画したわけです。

この内国勧業博覧会というのは、当時殖産興業を推進していた明治政府が産業育成を進めるために行っていたもので、5~8年くらいの間隔で東京の上野で開催されていました。

これを何とか京都で開催して京都活性化の起爆剤にしたいと招致活動を続けた結果、第4回目の博覧会に京都の岡崎が選ばれたわけです。そしてこの時、平安京の大内裏(朝堂院)を復元して、博覧会のメインパビリオンとしたのです。

博覧会のもう一つの目玉は平安時代から明治維新までの歴史・風俗を時代を遡りながら行列を行うものでした。この時代行列が第1回目の時代祭」です。現在も毎年10月22日、平安京に都が移されたとされている日に行われていて、京都三大祭りの一つに数えられるまでに発展しました。

平安神宮の境内

朱塗りの大鳥居をくぐると正面に平安神宮の正門が見えてきます。この大鳥居は1928(昭和3)年に京都で行われた昭和天皇の即位の礼を記念してその翌年に造営されたものです。高さは約25メートルもあり、朱の大鳥居としては日本有数の大きさを誇ります。

そして正門は博覧会の時に建てられた応天門です。応天門をくぐってさらに境内の中を進むと平安神宮の社殿が広がっています。正面には大極殿が建っています。大極殿の前には、京都御所と同様に左近の桜と右近の橘が植えられています。大極殿は平安時代には即位や朝賀をはじめ主要な儀式が行われる国の中枢でした。大極とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示し、不動の指針である北極星に例えられ、天皇の御殿を意味しています。現在は平安神宮の拝殿となっています。

応天門から大極殿に至る回廊などに釣燈籠つりとうろうが吊るされています。これは1905(明治38)年に日露戦争勝利を記念して奉納されたものです。境内には145個の燈籠が吊り下げられています。境内の左右には青龍楼と白虎楼がそれぞれ建てられています。これらの建物は博覧会の時に平安京の5/8のサイズで作られたものです。

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