終戦時と同じ。コロナ禍と地方衰退に襲われる「統治の空白」ニッポン

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大都市圏での新型コロナウイルス新規陽性者数は減少傾向にあるとされるものの、全国規模で見れば1日あたりの死者数が急増中と、未だ第7波の只中にある日本。なぜ政権はこれまでの経験を生かすことができないのでしょうか。今回のメルマガ『 冷泉彰彦のプリンストン通信 冷泉彰彦のプリンストン通信 』』では著者で米国在住作家の冷泉彰彦さんが、終戦前後における我が国の「統治の空白」について考察するとともに、現政権のコロナへの一連の対応を「統治の放棄」として厳しく批判。その上で国民に対して、この状況を乗り切るための議論の展開を促しています。

※本記事は有料メルマガ『 冷泉彰彦のプリンストン通信 冷泉彰彦のプリンストン通信 』』2022年8月16日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はこの機会に 冷泉彰彦のプリンストン通信 冷泉彰彦のプリンストン通信 』をどうぞ。

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8月15日に考えた「権力の空白」について

今年も8月15日がやってきて、そして過ぎて行きました。この戦争終結の日付ですが、米国では降伏文書に調印がされた9月2日のことを「VJデー」としています。また、中国やロシアの場合は、どういうわけか1日後の9月3日を戦勝記念日としているようです。

では、日本の場合はどうして9月2日ではなく、8月15日という日付を大切にしているのかというと、それは日本軍が無条件降伏したことが悔しいというよりも、軍の降伏により戦闘が終結したからだと思います。具体的には、冷静に考えると不思議なのですが、その直前まで核攻撃、大規模空襲、機銃掃射などといった連合国の攻撃により、非戦闘員でも「死と隣り合わせ」であったのが、その恐怖から解放されたからであると考えられます。

不思議というのは、この日を境に当時の日本人が「連合国が攻撃を停止する」ことを無条件に信頼し、また「日本軍が武装解除する」ということも、その裏返しとして信頼していたという問題です。いくら鈴木貫太郎内閣が、昭和天皇の肉声録音という「奥の手」を使ったにしても、生きるか死ぬかの大問題について、その放送により全ての日本人が「一発で信用」したというのは、にわかには信じられません。

勿論、45年の8月に入ってからは、ポツダム宣言に関する新聞記事は出ていたし、原爆による壊滅的被害の問題、そしてソ連の条約無視と参戦という事態の中で、勘のいい人々を中心に「残るは時間の問題」という「空気」は濃厚にあったのだと思います。これに加えて、やはり「負け戦を止められない」軍部への根本的な不信感というのは、相当に広がっていたのでしょう。

そんな中で、やはり8月15日というのが「死の恐怖からの解放」であり、同時に「嘘で固めた戦時体制からの解放」であったのだと思います。また、これは恐らく鈴木貫太郎と、昭和天皇などが個人的に判断したことなのかもしれませんが、盂蘭盆のその日を無条件降伏として、その後は、毎年この日に死者への追悼を重ねるという「設計」がされたということも記憶しておいていいと思います。

ちなみに、この日のことを終戦とするのか、敗戦とするのかという「言い方の問題」が戦後ずっと議論されてきました。勝利の見通しのない戦争を始めたことへの反省を含めて、この結果を厳粛に受け止める立場からは「敗戦」とする、一方で、占領軍を「駐留軍」と呼び変えるなど、「戦争に負けたことをあまり強く言わないで、アメリカと協調し、共産圏と敵対する」立場からは「終戦」とするという考え方のズレが長くあったように思います。

この点については、昨今の情勢を考えると、「敗戦」という言い方の方が「悔しいからもう一度」的な危険性を帯びてきており、むしろ「終戦」という言い方の方が、軽武装と専守防衛で永久平和をという現実主義に近いような語感を持っているのですが、これはあくまで個人的な感想です。皆さまそれぞれに、語感という点からどう考えるか、ご教示いただけると有難いです。

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