聖徳太子の時代から日本人の根幹に根付く「国力の源」とは何か

 

ちょっとした計算をしてみましょう。すべての人には両親がいます。そしてそのそれぞれに両親がいる。そうやってさかのぼると10代前にはご先祖さまは2の10乗、つまり1,024人必要です。そこからさらに20代さかのぼると、なんと10億人の先祖がいることになります(2の30乗ですね)。

一代が25年平均だとして30代前は750年前。時代で言えば鎌倉時代。当時の日本にそれだけの人口がいたはずもありませんから、やはり我々はどこかでみんな繋がっていそう。

それに、その倍以上前からこの国はあるわけですから、あなたも血筋をたどるとどこかで地方豪族の先祖が一人くらいはいそうでしょ。その地方豪族はことごとく、天皇の親戚になっていった。そうなるともう、あなたも私も皇族の親戚筋だとなるわけです。

こうやって天皇家は、日本国民の家長的存在としてすべての国民の幸せを祈る役割を担うことになっていきます。

さて、その家長が、国民という家族たちに「我が家ではこういうことを大切にしているんだよ」と伝えてきたことがあります。それが、「みんな仲良くね。だって家族だから」です。もちろんかなり平たく言えばですが(笑)。

聖徳太子が摂政(天皇が幼少期などに代わりに政治を行う責任者)であった604年、「十七条憲法」が制定されました。

もちろん今の憲法のような役割ではなく、官僚や貴族に対する道徳的行動規範という意味合いが強かったのですが、要は、「この国はこんな国にしていくんだぞ、そのために官僚や貴族はこういうことを大事にするんだぞ」という声明文であることに変わりはありません。そして、その精神は今でも日本人の根底に流れています。

「第一条」はあまりにも有名ですよね。

「和を以て尊しと為す」

これこそが、日本という国のあり方を決定づけたと言ってもいいと思います。これがどれほど意味深いものかは、続きを読まなければ見えてこないかもしれません。

第二条 「篤く三宝を敬え」

第三条 「詔を承りては必ず慎め」

と続きます。そして最後の第十七条。大体、最初と最後は一番言いたいことがくるものですが、最後に来たのはというと、

「大事な物事は独断で決めてはならないよ。必ず話し合うこと」

って第一条の繰り返しやん!

国を運営する立場として何より忘れてはいけないのは「和」であると繰り返したわけです。

第二条の「三宝」とは仏教の教えのことです。

ここは今の僕たちとは感覚がずれるところかもしれませんが、当時の人たちにとって仏教とは、今の我々にとっての仏教とは違っていたと、僕は思っています。

聖徳太子より前の時代は、日本に仏教という考え方は浸透していなかった。異国から入ってきたばかりのまったく新しい考え方だったはずなんですね。どうして仏教を政治にとり入れる必要があったのか。

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