大人になっても「自分探し」を続ける人がいますが、私は無意味な時間だと考えています。「やりたいことがない」「やりがいを感じられない」という人は、とりあえず「やってみる」ことで活路が見えてきます。まずやってみないことには、何が得意なのかは見えてこないのです。(『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』午堂登紀雄)
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プロフィール:午堂登紀雄(ごどう ときお)
米国公認会計士(CPA)。1971年生まれ、岡山県出身。中央大学経済学部 国際経済学科卒。株式会社エディビジョン代表取締役。一般社団法人 事業創造支援機構代表理事。
自分は何が得意なのか。それは、やってみなければわからない
これは私個人の考えですが、「やりたいこと探し」「やりがい探し」「自分探し」は不要という意見を持っています。それらは探して見つけるものではなく、「出会う」「自分で気づく」ものだと思うからです。
好きなこと、自分に向いている仕事、やりがいがある仕事を探すのが、あまり意味がない理由のひとつに「自分に向いているかどうかはやってみないとわからない」という側面があります。
たとえば「得意」というのは、他人と比較して、あるいは周囲からの評価によって認識するもので、自分だけでは気づきにくいという側面を持っています。
たとえば、私の卑近な例で恐縮ですが、私が自分のことを「作業系の仕事が得意なんじゃないか」と自覚したのは、コンビニで店舗運営に携わっていた時です。
なぜか他人よりもソフトクリームが上手に作れる。他の人は形が崩れたり、量も多すぎたり少なすぎたりしているのに、私は形も規定量も一発で決まり、失敗がほとんどない。ほかにもチラシを封筒に封入するという作業も誰よりも速く、あっという間に終わる。
「他人よりもうまくできる」という比較を通じて、自分が器用だと認識したわけです。
ただし私の場合、それが何か職業選択につながるかというと、それだけではなかなか難しいものがあります。
というのも、肉体労働系ではどうしても自分の時間の切り売りになりやすいし、芸術作品を作れるほどのレベルでなければ、時間単価も頭打ちになりますから。
たとえば「倉庫内軽作業」といった仕事では、私は圧倒的な生産性を発揮することができるんじゃないかと思ったりするのですが、すぐに飽きそうですし。
その後、コンビニではマーケティングの部署に異動になりましたが、提案する施策は当たったこともあれば外れたこともあり、得意とまでは言い切れない。
外資戦略コンサルに転職した後も、「論理的思考力」という点では成長したものの、上には上がいて、とても太刀打ちできないハイレベルな人たちばかりですから、やはり確固たる自信にまではなっていない。
そして現在、このように書く仕事をしていて、継続的に依頼をいただけるようになってようやく「書くことは得意なんだろうな」という認識に至ったわけで、それまでは「ただ売れている著者」だから声がかかっているだけだろう、という程度でした。
しかし、売れても売れなくても執筆の依頼をいただけるということは、私の文章力や構成・表現力を買われているんだろうと自覚しています。もう著者としては15年目で、気づくのが遅すぎかもしれませんが。
何が言いたいかというと、得意なことというのは、それだけ自覚・認識するのが難しいのだということです。
自分で思っていても、相対的なものだから比較対象のレベルによっても違うし、周囲がそれを高く評価するのか、あるいはそれほど評価しないのかによっても違う(男女共学だとさほどモテないけれど、女子ばかりのクラスに男子数名だと、そこそこモテるようなものです)。
だから、まずはとりあえずやってみて、それなりのレベルに到達し、周囲と比較する・周囲からの評価を受け止めるという段階を踏む必要がある。
自分の得意なことが「どこかにある」のではなく、「やってみて」周囲との比較や周囲からの評価を受けながら、得意か不得意かを「自覚する」ということだと思います。