言葉で説明しにくい「修行」の意義
伝統や慣習の意義がわからなくなってきていることを表す最近の例としては、徒弟制についてでしょうか。少し前に、「寿司職人になるための修行は必要か否か」ということがネット上で一時期、話題になっていました。
寿司職人がある程度長い期間、師匠について修行することの意義、つまり徒弟制の意義を、多くの人はきちんと説明できていないように思いました。
鳴門親方が語った「付け人」制度
この点について私が感銘を受けたのは、大相撲の鳴門親方(ブルガリア出身の元大関・琴欧州)が簡潔ながら的確に語っていたことです。
もう半年以上前の記事ですが、『週刊文春』の阿川佐和子氏との対談記事で、鳴門親方は、付け人(付き人)制度の意義に次のように触れていました。
鳴門親方:稽古すれば強くはなります。それよりは素直で気配りができるかどうか。関取が出れば付け人が必要になるわけで、食事のときに水がなかったりするとパッと持って来ることができるとかの気配りが必要。
阿川氏:いま何が必要なのか瞬時に気づく能力ですか?
鳴門親方:ええ。その力があれば、稽古場で私が教えていても、さらにそれ以上に自分で何が必要なのかわかって稽古することができます。そういう子はどんどん伸びていきますよ。
出典:阿川佐和子のこの人に会いたい(『週刊文春』2017年5月4日・11日号)
「付け人」制度や徒弟制一般について、暑苦しいとか、前時代的だなどと批判するのは簡単です。ですが、長年残ってきた慣習ですので、「付け人」制度にもなんらかの意義があるはずです。
鳴門親方は、実にサラッと、その意義の1つを語っています。
師匠や兄弟子(先輩力士)と同じ空間で長い時間を過ごし、稽古以外の雑用などもこなすことを通じて、師匠や兄弟子のものの見方を学び、その見方から自分自身を見つめる観点が習慣として身についていく。
すると、稽古場でも、自分の現時点での技量を常に師匠の観点から見つめ、吟味し、いま自分にとって何が欠けているか気づき、どうすればいいか、あれこれ考えることができるようになる。
こういう気づきや自己吟味の能力を身につけた者は、学ぶ速度や、その後の伸びが違ってくる。
鳴門親方は、以上のようなことを簡潔に指摘しています。
これは学問的にみても妥当だと思います。教育学者の生田久美子氏(東北大学名誉教授)も、相撲や日本舞踊、邦楽などの徒弟制のなかでの学習の意義について、同じような指摘をしています(生田久美子『「わざ」から知る』(コレクション認知科学6)、東京大学出版会、2007年(新装版)、70-91頁)。
徒弟制度は、様々な職人の世界や武道や芸道の修行で今でも多くの日本人にとって比較的身近なものです。ですが、その意義や効用を、うまく説明できる日本人はあまりいないのではないかと思います。鳴門親方は、外国出身だったからこそ、徒弟制度の意義を知的に理解し、説明できるようになったのかもしれません。
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