フジテレビは不祥事を起こしてしまい「このままいくと経営危機に陥ってしまうのでは?」と気になっている人が多いと思います。また、「フジテレビはこのまま潰れてしまうの?」と思っている人も少なくないようです。そこで今回は、投資対象であるのかはいったん置いて、フジテレビの経営の良し悪しについて解説していきたいと思います。(『 バリュー株投資家の見方|つばめ投資顧問 バリュー株投資家の見方|つばめ投資顧問 』栫井駿介)
プロフィール:栫井駿介(かこいしゅんすけ)
株式投資アドバイザー、証券アナリスト。1986年、鹿児島県生まれ。県立鶴丸高校、東京大学経済学部卒業。大手証券会社にて投資銀行業務に従事した後、2016年に独立しつばめ投資顧問設立。2011年、証券アナリスト第2次レベル試験合格。2015年、大前研一氏が主宰するBOND-BBTプログラムにてMBA取得。
フジテレビの歴史を振り返る
まずは、フジテレビの過去から現在までを振り返ります。
ここではフジテレビが過去に番組で不祥事を起こした後、視聴率がどうなったのかについても解説しています。
この章を読むと、今回の不祥事後の視聴率の予測ができるでしょう。
<フジテレビができた経緯>
フジテレビは、1959年に初代のフジサンケイグループの議長である鹿内信隆氏が財界の支援を受けながら作った会社です。
フジテレビは、キー局のうち4番目に放送をはじめました。
最初がNHK、次いで日本テレビ、TBSが開局しその次にできたのがフジテレビです。
ちなみにいま財界として残っている会社は、日本航空や富士製鉄などがあげられます。
財界の後押しがあってできた背景もあり、フジテレビはスポンサーを引きつけやすい会社だといえます。
<フジテレビ立ち上げ初期>
フジテレビの立ち上げ当初は、苦戦することも多くあったようです。
まずテレビ局を立ち上げた当初、当時の一般市民が現代のように一家に1台ほどテレビを持っていなかったことが、苦戦を強いられる原因の1つだったといえます。
また民放の中で最初に作られた日本テレビが、強い競合として立ちはだかったため視聴率でなかなか勝てない時間が長く続きました。
<風向きが変わった1980年代のフジテレビ>
開局から約20年たった1980年代に、フジテレビが大きく変わる出来事がありました。
それは、フジテレビトップの交代です。
鹿内信隆の息子である、副社長の鹿内春雄氏が就任することになりました。
財界の支援で立ち上がった会社であるため、鹿内信隆氏が創業したわけではありません。
ですが、フジサンケイグループの株を鹿内家が多く持っていたため世襲のような世代交代がなされました。
鹿内春雄氏は、遊んでばかりで享楽的に生きている人だったようです。
そんな人でも世襲なので、フジテレビの中で偉くなります。
ただ鹿内春雄氏の社長就任が、フジテレビにとって追い風となる出来事となりました。
<鹿内春雄氏の戦略>
世代交代直後は、元々視聴率が取れていなかったので経営状況も苦しい状態でした。
そこで、もっとみんなが楽しめるような番組を作って視聴率を取っていかなければならないということで方向性を変えます。
初代社長の鹿内信隆氏は当時、コストを削減してなんとか会社を成り立たせようとしていました。
行っていたコスト削減は、制作を自社でやるのではなく下請けに外注し安い経費で番組を作る方法です。
そのやり方では視聴者に楽しんでもらえる番組を作れないと思い、跡継ぎの鹿内春雄氏がこれまでの方針を見直す流れになりました。
具体的な施策として行ったのが、編成や政策などの部署を1つにまとめたことです。
複数の部署を「大部屋」として1つにまとめると、社内で垣根がなくなりました。
社員同士の交流が深まると好循環が生まれ、そこからいい番組がつくれるようになったわけです。
そのときに活躍したのが、後にフジテレビで重要な人物となる日枝久氏です。
フジテレビは世代交代を機に、視聴者に楽しんでもらえるようなバラエティー番組に力を入れるようになります。
<1980年代からでてきた番組>
1980年代以降にできた、人気番組をみていきましょう。
『オレたちひょうきん族』:1981年5月16日~1989年10月14日
『森田一義アワー 笑っていいとも!』:1982年10月4日~2014年3月31日
『ダウンタウンのごっつええ感じ』:1991年12月8日~1997年11月2日
『とんねるずのみなさんのおかげです(した)』:1988年10月13日~2018年3月22日
『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』:1994年10月17日~2012年12月17日
『SMAP×SMAP』:1996年4月15日~2016年12月26日
『めちゃ²イケてるッ!』:1996年10月19日~2018年3月31日
『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』:2002年10月7日~2006年9月27日
このような国民的人気番組を制作できた理由として、人事の垣根を取っ払ったことにあると考えられます。
当時は負け組であるフジテレビの人たちが一体となって、視聴者に楽しんでもらえる番組を制作する空気を作れたのが大きな要因だったといえます。
それを推し進めたのが、2代目である鹿内春雄氏でした。
<鹿内春雄氏の死去>
ところが、1988年に鹿内春雄氏が43歳という若さで亡くなってしまいます。
春雄氏はもともと体が弱かったようで、ボストン大学を中退してアメリカから帰ってくる時も結核にかかっていたそうです。
そこで、鹿内信隆氏の娘婿として入っていた鹿内宏明氏が跡継ぎとして据えられました。
<その後のフジテレビ>
先ほど、フジテレビの改革を引っ張っていった一人として紹介した日枝氏がクーデターを起こします。
鹿内宏明氏は元々現場にもいなかったようで、宏明氏の経営ではダメだと思った部分があったのかもしれません。
そして、1992年に宏明氏は議長から引きずり下ろされました。
この件を投資家目線で見ると、バラエティー番組が人気で視聴率もかなり伸びていた時に内部が不安定になるのはよくありません。
特に権力争いのような社内抗争が起こっている会社は要注意で、投資をする場合は慎重になる必要があります。
<フジテレビの上場>
宏明氏が引きずり降ろされたあと、日枝氏が事実上のトップとなりました。
ですが、鹿内家はまだ株を保有しており株主として権力がありました。
その権力を嫌った日枝氏は、フジテレビと同グループのニッポン放送を上場させようと考えます。
会社を上場させるときに増資を行うため、鹿内家の持分が全体から見ると少なくなるので影響力が薄まります。
そこで1996年にニッポン放送を、1997年にはフジテレビを上場させました。
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