水が「金融商品」になる恐ろしさ
今回さらに米国では、金・石油などの商品とともに水もウォール街で取引されるようになった。「水」自体が先物取引されることになった。
この動きは、「山火事と暑さが米西海岸に深刻な水不足をもたらしたことが影響した」とされるが、これが何をもたらすだろうか。
「先物取引」は予め市場で取引することで、将来時点での価格を先決めする仕組みだ。例えば農家がある作物を植え付ける前に、将来時点の価格がわかれば、何を植えるかを選択することができる。安すぎるならその作物生産はやめて、もっと市場のニーズに合った高価格のものを作付けすることができる。そして消費者の側も一定価格で買えることを先に決められるなら、予想外の高価格を避けることができる。
従って「先物取引」自体が悪いわけではない。しかし先物取引は「デリバティブ取引」に分類される通り、金融商品化することだ。金融商品化には、独特の危険性がある。
まずその金融商品自体が価値の貯蔵の手段となるので、水という生命と直結する資源そのものが市場でやりとりされることになる。すると貧富の格差により買えない人は当然生まれることになり、生存をより貧富の格差にさらすことになる。
そして金融商品となれば、高く売るために売り惜しみが生じたりするだろう。さらに金融商品になることで、値を上げるために市場参加者を増やそうとするだろうし、貯蔵の手段となれば退蔵(物資を使用せずに隠し持つこと)しようとする動きも生まれるだろう。
そのことは市場に参加できない貧者にとっては過酷なことになるだろう。
現に今の時点でも、水を買うことができずに生命を脅かされている人たちは世界中にたくさんいるのだ。世界は今、その金融商品へと進む扉を開きつつあるのだ。
水の先物取引には賛同できない
価値あるものを市場の外に置き続けておくことの方が難しいかもしれない。何もかもをカネで買えるものにしようとするのが、グローバルな資本主義の流れなのだから。
しかし、私はこうした流れに賛同することはできない。では、どうしてもカネではない価値付けをするにはどうしたらいいだろう。
それが「共有」「共生」の「共」という概念なのではないかと思う。不可分なつながりを示すための「共」だ。「公」とは違う。もっと泥臭くて密接で、コミュ二ティー内で価値を持つ存在だ。
それを、みすみす営利目的の者たちの「金融商品」という枠組みに与えたくない。それは地域の人々が地域の人々のために、時代を超えて大切に保持するものであるべきだと思う。