恣意的な新元号への対抗策はある
例えば、簡単な対抗策として、予算委で野党議員が次のように質問する方法がある。
「総理は、有識者懇談会が出してきた原案に『安』の字が入っていたとき、それをそのまま原案として認めて衆参正副議長に意見聴取する手続きに入りますか」。こうした質問をストレートにぶつける手がある。
間違いなくマスコミが注目し、安倍晋三氏の答弁がテレビで放送される。想定できる安倍晋三氏の回答は、「仮定の質問には答えられない」だが、そのときは、「それなら、中国軍が尖閣を占領した場合の対処についても仮定の質問ですが、答えられないと言うのでしょうか」と切り返せばいい。
「国民生活にとって重要な問題だから質問しているのだ」と言い、皇帝が時間を支配するという意味が元号にあることを歴史的に説明し、「安」の字が入った元号の制定は、国民の将来にわたっての精神生活を安倍晋三氏が支配することに繋がるのだと正論を吐けばいい。国民への精神的苦痛の強制になるが、それでもいいのかと言えばいい。
それは、今、国民が最も安倍晋三氏に訊きたい焦眉の関心事項だろう。安倍晋三氏が逆ギレして感情的な応酬を演じれば、視聴率になる騒動のショットが出来上がり、ワイドショーが喜んで番組のネタにする。こうした状況を作ることができれば、新元号に「安」の字を入れることを阻止する力になる。
NHKで何度も「安」の字が入った新元号を試し見させているのは、安倍晋三氏によるポーリング(アドバルーン)の政治だと看破するべきであり、威力偵察して抵抗がないかどうか見極めている権謀工作だと意図を見抜く必要がある。国会で質問する野党議員には、6年前の背番号96の演出についても触れ、安倍晋三氏の過剰な自我表出のメンタリティについても分析を加えて欲しい。安倍晋三氏の人格を精神科医の診断で解読し、それを質疑の場で披露することは、野党議員がやらなければいけないことである。それは、安倍政治の病理と倒錯に対して国民の常識を対置することだ。
精神的自由権の問題か
本来、この問題は、憲法の内心の自由(精神的自由権)の問題であり、良心の自由を侵害される問題であるように私には思われる。
2007年、日野市の小学校の入学式で国歌斉唱時にピアノ伴奏するよう校長から音楽教師が職務命令され、教師が拒否して戒告処分され、良心の自由を保障した憲法19条違反であるとして訴えた事件があった。小泉政権の頃、これに類する事件が多く発生し、2006年、「君が代」斉唱時に起立して斉唱しなかった都の教員33人が懲戒処分されるという事件も起きている。平成天皇が都教委の米長邦雄に対して、「(国歌斉唱は)強制でないのが望ましい」と園遊会で述べたのが2004年だった。
役所の書類を提出する際は元号での記入がデフォルトであり、それを個人が西暦に書き直すことができたとしても、そこには個人の思想信条を役所の窓口で知られるという精神的苦痛が伴う。
元号を認めている者でも、さすがに安倍晋三氏を表徴する「安」の字の書式で提出するのは、内田樹氏のように苦痛で不快で堪らないだろう。芦部信喜氏の『憲法(第五版)』(岩波)には、「思想・良心の自由が不可侵であることの第二の意味は、国民がいかなる思想を抱いているかについて、国家権力が露顕(disclosure)を強制することは許されないこと(略)である」という記述がある(P.147)。
さらに、「天皇制の支持・不支持について強制的に行われるアンケート調査など、個人の内心を推知しようとすることは、認められない」とあり(P.148)、例の橋下徹氏と野村修也氏による大阪市職へのアンケート調査の事件の判決の根拠になった憲法解釈が明確に示されている。