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モスク銃撃犯はサイコパスじゃない。犯行声明を和訳してわかった模倣犯続出の危険性=高島康司

犯行声明の呼びかけ

・あなたがこのような暴力的な攻撃の実行に至った出来事や理由はあるのか?

この攻撃を実行する2年ほど前に、私の考え方を大きく変える出来事があった。それは2017年4月から5月にかけての期間だった。この期間に起きた出来事が、私の抑制や遠慮、そして冷笑的な態度を取り払い、現在の西欧の状況を明らかにしてくれた。この一連の出来事によって、現在の我々の危機に対処するには、民主主義による政治的な解決ではなく、暴力的で革命的な解決策しかないという事実を明らかにしてくれた。

そのとき私は西ヨーロッパを旅行しており、フランス、スペイン、ポルトガルなどの国々に行った。私を変えた最初の出来事は、2017年4月7日にストックホルムで起こった。それは、私が成人してから頻繁に起こっている終わりの見えないテロのひとつだった。

しかし、なぜかこのときだけは違っていた。テロ攻撃があるたびに私が示していた無感覚な冷笑的態度は、このときは現れなかった。これまで私は、イスラムの侵略者による攻撃があるたびに冷笑していたが、このときばかりはこのような態度はもはや現れることはなかった。私の顔から嘲笑的な表情は消え去った。このような暴力を無視することなどもはや私にはできなかった。このときはなにかが違っていた。

この違いはエバ・アカールンドだった。若くて無垢ななま死亡したエバ。エバがイスラム教徒の攻撃で死亡したとき、彼女は学校の後で母親と会うために歩いていた。エバは聴力に問題があったので、攻撃者が近づいてくるのが分からなかった。エバの侵略者による侮蔑的で暴力的な死と、それを止めることのできなかった私の無能力さは、私のこれまでの無感覚な冷笑的態度を、ハンマーで叩き壊した。

もはや私は攻撃を無視することができなかった。これは、私の民族、私の文化、私の信仰、そして私の魂に対する攻撃だった。それを無視することはもはやできなかった。

そして次の出来事は、2017年のフランス、大統領選挙だった。候補者は、グローバリストで資本家の元投資銀行家で、明らかに利益の追求しか頭にない人物と(マクロン)、無気力で意気地無しで、もっとも勇気ある決断が違法移民の排除であるという市民社会のナショナリスト(ルペン)との戦いだった。

ばかげた一騎打ちではあったが、偽ナショナリストの勝利はまだ政治的な解決が可能であることを示す兆候のように私には思えた。国際主義者でグローバリスト、そして反白人種の元銀行員が勝ってしまった。接戦でもなかった。ヨーロッパの政治的情勢の現実を私は受け入れることができなかった。民主主義的な問題解決の方法は私のなかから消え去った。

そして最後の一押しは、フランスの都市や町の現状を見たことだった。私は何年も前から、フランスが有色人種によって侵略されていることを読んだり、聞いたりしてきたが、これらのうわさや話は政治的な意図で作られた誇張にしかすぎないと思っていた。

しかし、私がフランスに到着してみると、これは事実であるばかりではなく、控えめな表現にすぎないことが分かった。フランスのあらゆる町に侵略者(イスラム系移民)がいたのである。

私がどこを旅行しても、またどんな田舎の町を訪れても侵略者はいた。フランス人は少数派になっており、通りで見かける彼らの多くは、一人で子供もなく高齢だった。一方移民は、若く、エネルギーにみちあふれ、大きな家族で子供はたくさんいた。

あるとき私は、フランス東部の人口が1万5000から2万5000人くらいの町にあるショッピングセンターに、雑貨を買いに行ったことを思い出す。私は駐車場に車を止め、ショッピングセンターに入る人々を眺めていたが、そこにはフロントドアから中に入る膨大な数の侵略者ども(イスラム系移民)がいた。

すべてのフランス人の男女には、その数の倍の侵略者がいた。私はもう十分に見た。怒りが込み上げてきて、呪われた町にこれ以上止まることを拒否し、次の町に向かった。私の旅行計画にあった次の町に行っても侵略者を多く見ると思うと、フランス人を屈辱する侵略、フランス人の悲観、文化とアイデンティティーの喪失、提示された政治的解決策の茶番を想うと、私の感情は爆発するような怒りから窒息するような絶望へと揺れ動いた。

私は、ヨーロッパを崩壊に追い込む戦争を戦った無名戦士が埋葬されている墓を訪れた。私はこの無名戦士の墓については多くの人から話を聞いており、また写真でも見ていた。しかし、そうであっても私はその光景を見る準備はできていなかった。白い簡単な木の十字架が道路から地平線まで限りなく広がっていた。それは計り知れない数で、理解しがたい数の犠牲を象徴していた。

私はレンタカーを止め、十字架を見て座った。なぜこれほどまでの尊い男女の犠牲がありながらも、彼らの勇敢さにもかかわらず、我々は侵略者に敗北してしまったのだろうか?

私は忘れ去られた死者の十字架を見て、泣き崩れ、車のなかでひとり泣いた。なぜ我々はこれらの無名戦士の死を無駄に終わらせているのだろうか?なぜ我々は、侵略者(イスラム系移民)が占領し、一発の銃弾を撃つことなく我々を圧倒しているのを許しているのだろうか?

なぜだれも立ち上がらないのか?

果てしなく続く十字架を前にして、忘れ去られた戦争で死んだ戦死を前にして、私の絶望は恥ずかしさに変わり、恥ずかしさは罪悪感へと、罪悪感は怒りへと、怒りは憤怒へと変わった。

なぜだれも立ち上がらないのか?なぜだれも立ち上がらないのか?なぜ私は立ち上がらないのか?

呪文は解けた。なぜ私は立ち上がらないのだろうか?私が立ち上がればよいではないか?私でなければ、だれが立ち上がるのか?私ができるのであれば、なぜ他の人にやらせようとしているのか?

ここで私はなにかをする決意をした。ここで私は、暴力に訴えた行動をする決意をした。私自身が暴力に訴えて、侵略者どもに戦いを挑む。

以上である。

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