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昔は敏腕プログラマーだった?グリーンスパン元FRB議長にまつわる噂話

グリーンスパンのプログラムは本当に「PPT(価格下落防止チーム)」の基礎となったのか?

これだけでは、よくわかりませんので、他の資料も漁りました。それらから得られた情報の要点を以下に羅列します(ただし、ほとんど裏が取れない話もあります)。

情報1

グリーンスパンの恩師と言えば、アーサー・バーンズ元連銀議長。

情報2

グリーンスパンは1960~70年代、まだコンピューターがパンチカードで動いていた時代に、経済モデルプログラムを書いていたそうです。JFK, Lyndon Johnson, Richard Nixon と3代の大統領の経済顧問を務めた Pierre Andre Rinfret は、次のように証言しています。

「グリーンスパンのグループの仕事は、今で言えば、経済予測を数学モデルで求める経済モデルシステムに特化したものだった。私が記憶しているグリーンスパンの印象は、誰かが何かを発言すると、コンピューターを走らせて、スプレッドシートに印刷されて出てきた数字を見ていた姿だ」

情報3

興味深いのはグリーンスパンの幼馴染の John Kemeny。彼こそがBASIC言語の開発者の一人であるということ。グリーンスパンは著書の中で、John Kemeny について次のように記述しています。

「John Kemenyと一緒に数学の教室に座ったことを憶えている。彼はハンガリーからの避難民で、後に Thomas Kurts とともにBASIC言語を共同開発した人物だ。Thomas Kurts は後にダートマス大学の学長になった。John Kemeny は、まだ英語が下手で訛りが酷かったが、数学では超優秀だった」
「私は、John Kemeny が数学で優秀なのはハンガリーで受けた学校教育が素晴らしかったからだと思い込み、もしそうだったら数学的才能は後天的に得られると考え、彼に『数学が強いのは欧州から来たからかい?』と聞いたのだ。ところが、彼は私の真意がわからず、『みんな欧州からの移民じゃないか!』と答えたのだった」

情報4

連銀内部での、このプログラム開発グループの主要メンバーグリーンスパン元議長, Arthur Burns, Stephen Devaux だったのではないかと言われています。この Stephen Devaux は、連銀のゴールドコミッションに9年間勤務。この時に、市場を管理する取引プログラムを作成したとされています。

この後、Citicorp に1985年から1986年にかけて勤務。Citiでは、同行の銀行ソフトウェアを開発。その後、1986年から1987年に掛かけて Fidelity で、彼のソフトを株式市場でどう使うのかを教育しました。さらに、コンサルティング会社PSDI社(1987年から1991年)を立ち上げ、Maximo というソフトを米国造幣局からあらゆる有名な資産管理会社へ供給しました。
※PSDI社は現在IBM社の傘下に入り、Maximoは全世界の顧客に販売されている

情報5

グリーンスパン元議長の父親はユダヤ人移民。母もユダヤ人移民。父はニューヨークで株のブローカー及び市場アナリストをしていました。

グリーンスパン元議長は、ジョージ・ワシントン高校出身で John Kemeny とクラスメートでした。同じく級友のスタン・ゲッツ(誰もが知っているジャズ・ジャイアント)と一緒に、元議長自身もクラリネットやサックスを演奏しています。

その後ジュリアード音楽院に進学したグリーンスパン元議長は、一時は本気でクラリネットを学びます。その後、ウディ・ハーマン楽団に在籍し、そこでサックスを吹いていたLeonard Garment と知り合いました。この人物は、後にニクソン大統領の特別顧問に就任しています。

この二人、ウディ・ハーマン楽団にいたというのですから、決して下手ではなかったはずでしょう。グリーンスパン元議長は、1945年にニューヨーク大学に入学して経済学を学んでいます。

Next: グリーンスパンは実際に市場でテストをしたかったのではないか?

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