「高学歴パラドクス」「高偏差値パラドクス」が人生の足かせになってきた現実
「高学歴パラドクス」や「高偏差値パラドクス」といった言葉を聞いたことはないでしょうか。
実は、世の中に、こうした「パラドクス(逆説)」にとらわれ、弄ばれ、不本意な人生を送る羽目に陥った人たちは大勢います。
むしろ、低学歴の人たちのほうが、のびのびとした自由を謳歌して、高収入を得られるようになった事例のほうが多いのです。
これは「低学歴パラドクス」と呼んでも差し支えないでしょう。
「落ちこぼれ」と蔑まれるぐらいのレベルの地位に身を置いた人のほうが、世の中では成功して、幸福を実感している人のほうが多いのが実際なのです。
大企業で社畜になって、自分の人生の時間の大部分を消耗する生活では、「余裕が生まれない」からなのでしょう。
たとえ給料が平均より安くても、自由に使える個人的時間が多いほど、高収入を得るチャンスや効率のよい投資に出会える場面は多くなるからです。
ちょっとぐらい平均より高い収入を得て、大企業で朝から晩まで社畜を続ける生活よりは、たとえ給料が低くても中小企業や零細企業で、「余裕」のある生活を送っている人のほうが、「人生の気づき」が多くなり、「ちょっと、こういうこともやってみようかな」という人生成功への導火線に数々恵まれるから――と言ってもよいわけです。
実際そういう人のほうが私自身の周囲には多いのです。
定年まで大企業で働いてきた人たちのほうが、現在は貧困老後といってもよい状況――なのは、どういうことでしょうか。
なぜ、高齢者になってから、「幸・不幸の逆転現象」が多く見られる現実があるのか――と言えば、「高学歴信仰」の呪縛にいつまでも囚われてしまった人が、世の中にはあまりにも多いからです。
子供の頃から、「しっかり勉強して、いい学校を出れば、将来は安定した有名大企業に入れて、給料も沢山貰えて、人生が安定する」などといった神話に毒されて育ってしまったからでしょう。
繰り返しますが、大企業だろうが、サラリーマンという勤め人である限り、生涯収入などタカが知れているのです。
一生涯カツカツです。
まず、第一に認識しておくべきは、「高学歴=お金が稼げる」ということとは一致していません。
これは、ちょっと考えれば当たり前すぎる話でもあるしょう。
しょせん、サラリーマンとしての収入の多寡は、そこそこ知れているからです。しかし、残念ながら、そこを勘違いしている人が多いのです。
当然のことですが、勉強ができる人が、会社での仕事もできる――とは限りません。
仕事は目前の課題を周囲の人たちとコミュニケーションしながら解決していく能力が問われます。
求められる能力は勉強とは異なるのです。
世の中には、大学院の博士課程を出ても、どこからも及びのかからないオーバードクターが溢れている――とはよく聞く話です。
勉強が好きとか、勉強が出来ても、仕事に使える能力でなければ社会にとっては、不要だからなのです。
また、一流有名大学を卒業した人たちは、競って一流大企業に就職しようとするでしょう。
しかし、そこに待っているのは、「椅子取りゲーム」の競争社会です。
遮二無二働かされる社畜となって激務に耐えても、やがてそれに見合った「昇格・昇給」というご褒美が貰えるかどうかも、はなはだ不確かな世界なのです。
ゴールの見えないラットレースを強いられて、途中で身も心もボロボロになって脱落する人もあとを絶たないでしょう。
勉強だけで、評価を得てきた人には、耐えがたい試練となってしまうだけなのです。
家には寝に帰るだけの社畜を続け、肝心の家庭生活が破綻する人も大勢います。
あまり人気のない業種や会社に入るほうが、競争の少ないブルーオーシャンとなり、相対的に評価されるチャンスも高いのに、プライドが邪魔をするのか、高学歴、高偏差値の人たちは、あえてレッドオーシャンの大企業の海に飛び込みたがるから不思議なのです。
つまり、こうした高学歴で高偏差値の人は、「度胸」もないのです。
ゆえに、いつまでも、つらくても大企業という看板にしがみつきたがります。
なまじ、頭だけは小賢しくはたらくために、さまざまなリスクを用心深く考えてしまうからです。リスクの過大評価です。
ゆえに、目の前によいチャンスが訪れても、収入が安定的な大企業勤務の属性と、自由社会でのリスクを天秤にかけるため、臆病になりがちで、せっかくのチャンスを逃すことも多くなるのです。
公務員や大企業に就職してしまうと、その傾向がより高まるわけです。
一見安定しているかに見える大企業勤務の既得権益を手放すことに抵抗があり、アクションを起こすことができなくなるのです。
しかし、それも50代を迎えれば、今日では「役職定年制度」で役職を外され、給与も激減します。
ロートルは要らない――という露骨な差別的待遇が待っているのにです。
失敗しても、「人生には敗者復活」という道もある――といった人生観における臨機応変な柔軟性がないわけです。
こうして、「高学歴パラドクス」「高偏差値パラドクス」の中で、もがき苦しみながら、貴重な人生を苦渋に満ちた生き方で過ごしがちになるのです。
これでは、たった一度の貴重な人生の使い方としては、非常にもったいないでしょう。
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