fbpx

起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史=東条雅彦

【結】1980年代のバブル発生とその崩壊

1985年9月22日のプラザ合意によって、日本は急激な円高に見舞われます。

・1ドル236円(1985年9月)→ 1ドル154円(1986年9月)

プラザ合意の想定を遥かに上回るペースで円高ドル安が進行していきました。

日銀は「円高不況」に対応するために急遽、公定歩合(今でいう政策金利)を約5%(1985年)から3%(1986年)まで引き下げました。金利を引き下げることで、企業は投資を行いやすくなり、家計にとっては住宅ローン等が借りやすくなります。

日本政府も米国政府に要求された通りに、経済構造を外需型から内需型へ転換する政策を推し進めます。政府の公共投資の拡大と日銀の金利引き下げによる「円高不況対策」は、結果的にバブル経済へと日本を追い込みました。

自国内でお金を回そうとした結果、お金の向かった先は「不動産」と「株」でした。あろうことかさらに日銀は、1987年に(当時)史上最低の2.5%まで金利を引き下げます。企業はお金を借りて株や不動産に投資する「財テク」に走り、銀行は収益性を度外視した不動産融資を増加させました。

当時の日経平均株価のチャートを見ると、本当に驚愕せざるを得ません。1985年に1万3000円だった日経平均株価は、1989年12月29日に付けた3万8,915円まで上昇していきます。5年間で日経平均株価は約3倍になったのです。

1987年10月17日の発生したブラックマンデーですら、単なる押し目買いのチャンスだと見なされていました。

<日経平均株価(1985年~1989年)>

170806tojo_4

日本株の平均的なPERは80倍にも達していました(一般的に適正だとみなされるPERは20倍前後だといわれています)。NTT株のPERは177倍になり、日本航空株は400倍になりました。当時はそれでも「株は下がらない」と信じられていた時代です。

今から思えば、プラザ合意(1985年)を受けて日本政府と日銀が行った内需拡大政策で生じた株高は、全部バブルだったのです。当時の日本経済の実力では、1万3000円前後が妥当な範囲でした。

この株バブルと同時進行で、不動産バブルも猛スピードで進行していきました。銀行はそれまで担保不動産の評価額までしか融資してこなかったのに、その時期は評価額の2倍まで融資が行われていたといいます。企業は本業とは別に「財テク」と称して、銀行から資金を調達して不動産を買い漁りました。

1990年には日本の不動産評価額は2000兆円を超えて、日本の25倍の面積のある米国全体の4倍に匹敵する状況になっていました。

  • 日本の国土:米国の国土=1:25
  • 日本の不動産評価額(2000兆円)=米国の不動産評価額(500兆円)×4倍

同じ面積で日本と米国を比較すると、日本の不動産評価額は米国の100倍に達していた計算になります。当時は東京の山手線の内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという試算が出ていたそうです(そんなアホな!?)。

企業の保有している不動産には莫大な含み益がある」と見なされて、株式も売買されていました。その意味では「株バブル」と「不動産バブル」は完全にリンクしています。

日経平均株価は1989年12月末の3万8,915円を頂点にして、わずか9ヵ月後には2万円を割り込み、バブル経済は崩壊しました。やはり「神の見えざる手」は存在しています。実際の適正な価格に届くまで落ち続けるのです。

<日経平均株価(1990年~1994年)>

170806tojo_5

この後、「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」となり、今へと繋がっています。

Next: そして現在、最後の賭けに打って出た「異次元の金融緩和政策」

1 2 3 4 5
いま読まれてます

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

MONEY VOICEの最新情報をお届けします。

この記事が気に入ったらXでMONEY VOICEをフォロー