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2021年、米中は国交断絶へ?FBIが今さら警告する中国の人材引き抜きと技術奪取=高島康司

文化大革命の人材流出から始まる流れ

この点を確認するために、中国の人材流出と帰国ラッシュの流れを歴史的に確認しておくべきだろう。当メルマガの第526回の記事に書いたが、一部を掲載する。

中国の科学技術の発展に関しては、日本を代表する中国の分析者のひとりである遠藤誉氏の『中国製造2025の衝撃(PHP研究所)』が大変に参考になる。この本は、中国政府が掲げる国家的な科学技術発展計画、「中国製造2025」の基盤が見えてくる。

そのひとつは、文化大革命後の人材流出と、1990年代終わりから始まるその激しい帰国の流れである。

周知のように中華人民共和国が建国されたのは、1949年である。そして、建国間もない1953年から1957年にかけて実行されたのが、「第一次5カ年計画」であった。この期間、ソ連の援助もあって、戦乱で荒廃した国土の復興が進み、経済は大きく成長した。そして、社会主義経済への移行も始まった。

この結果におおいに満足した毛沢東は、1958年からは、「大躍進政策」と呼ばれる極端な政策を推し進めた。社会主義化を一層推し進めると同時に、中国を一気に工業化して、15年でイギリスに追いつく水準にするというものだった。

しかし、その結果は惨憺たるものだった。農村では原始的な鉄の生産が強制されたため、食料生産は大きく落ち込んだ。その結果、4,500万人が餓死した。「大躍進政策」は1961年まで続いた。

その後、この政策の間違いに気づいた共産党は、毛沢東に代わり劉少奇を国家主席に選んだ。劉少奇は私有財産を認めて経済の自由化を推進し、経済は回復して成長した。

しかし、権力の喪失を恐れた毛沢東は、青年層の感情に訴えて勢力の盛り返しを図ろうとし、新たな革命を宣言した。「文化大革命」である。

毛沢東の熱狂的な信者である「紅衛兵」によって推し進められた毛沢東主義の革命は、毛沢東本人の予想を越えて進行し、全国の大学は閉鎖され、学生は地方の農村に農業労働力として強制的に送られた。「下放」である。「文化大革命」は1977年まで10年間続いたものの、この間に中国経済は大きく落ち込み、停滞した。

そして1978年、鄧小平は権力を掌握し、現在に続く「改革開放政策」の実施を宣言した。その3年後の1981年から海外留学制度が始まり、その後、留学許可の枠は順次拡大した。

これに応じたのは、農村に「下放」され、「文化大革命」の10年間、学習の機会を完全に奪われていた大学生であった。そうした学生による留学ラッシュが始まった。そして、かなりの数の学生が、ハーバード、MIT、スタンフォードといったアメリカの名門校への入学を果たし、博士号を取得するものも多く現れた。そうした人々のうち、相当数が当時は勃興期にあったシリコンバレーの企業に就職し、最先端テクノロジーの開発に携わった。また、後に注目されるベンチャーを立ち上げたものも多い。

Next: 1990年代末から始まる技術者の帰国ラッシュ。中国はどんどん強大に…

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