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学術会議問題は菅政権の作戦勝ち?「学問の自由」議論に落とし穴=真殿達

仁科芳雄に貫かれる平和主義のDNA

学術会議が設立された頃(1949年1月、法律の準備やGHQとの協議などを含めればその2年以上前から)の日本社会は混沌としていた。

人民戦線政権樹立を目指した日本共産党がゼネストを計画し、インフレや食料品不足は労働運動を先鋭化させ、歴史的争議や事件を招いていた。産業資金不足は限られた公的資金配分を巡って昭電事件のような疑獄事件を招き、政情は落ち着きを欠いた。

中国の内戦、ベルリンの封鎖など東西対立が激化し、GHQ内部でも日本の占領政策を巡ってニューディール派と反ニューディール派間の暗闘が繰り広げられていた。

日本の再建を急いだGHQは、経済安定9原則を掲げてドッジラインを実施した。

学術会議はこうした中で生まれた。設立に中核的役割を果たしたのは、GHQ経済科学局のハリー・ケリーだった。きっかけは、仁科芳雄が作成した米国にしか存在しないはずの大型サイクロトロン2基をGHQが発見したことだった。慌てたGHQはサイクロトロンを爆破、解体の上、東京湾に廃棄するとともに、非軍事学術研究体制整備のためにMITからケリーを招いた。

ケリーは仁科芳雄の平和主義的発想に触れて公職追放を押しとどめるとともに、その系譜の物理学者を中心に組織化を図り学術会議を創設させた。

学術会議の反軍事研究、平和主義はいわば組織の一丁目一番地だったのだ。その思想の主役は人文・社会科学の学者ではなく、軍部や戦争に翼賛的だったという自省の念に駆られた自然科学系学者のものだった。

今や、学者たちの平和主義に根差す憲法改正論議や安全保障論議といえば文系学者のものと決まっているようだが、それは代替わりを繰り返した挙句の経年変化である。

公式には、学術会議と政治的主張は別物だが、政治問題化しやすい軍事研究の是非などの議論では、個別会員レベルにもっとも強い影響を及ぼしたのは日本共産党であったと考えられる。国民レベルでは多数を占めることができなかった日本共産党は、学者の政党支持率や憲法改正論議では成功している。

東大をはじめ旧帝大での組織化(細胞造り)には政党の中で最も成功し、応分に高い支持率を確保し、その政治的主張が学術会議メンバーにも浸透したと推測される。伝統的に軍事研究や憲法問題に学術会議およびそのメンバーがリベラルな対応をしてきたのはこのことと無関係ではなかったのかもしれない。

Next: 大げさすぎる?「“学問の自由”の侵害」にまで拡大した議論

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