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次期日銀総裁・副総裁3人の学歴偏差値は史上最高。開成高校出身・岸田首相が秀才を選択した理由とは?=山崎和邦

リフレ派が消え自由度が高まった植田新総裁は何をやるのか?

植田新総裁は、早い段階で長期金利の政策に修正を加えるであろうが、緩和の持続性向上という位置付けを、基本的には守っていくという姿勢である。

日銀の幹部の中にリフレ派が消えていく。黒田総裁を始めとして、正副総裁からリフレ派がいなくなるのは10年ぶりだ。

リフレ派と目されていた若田部副総裁が、3月19日に任期を終えた。日銀が金融政策を修正したり、正常化したりする際に、植田日銀の自由度が上がる環境が出来上がった。ただし、政策を左右する最大の要素は、あくまでも経済と物価情勢であり、当面は米銀の破綻に関心が集まる。

黒田総裁を始めとして、その周辺にはリフレ派が布陣していたが、前半5年間の中心は、岩田副総裁、後半は、若田部副総裁だった。この2人ともいなくなった。金融政策決定会議のメンバーは9人だが、総裁と二人の副総裁の中で、リフレ派が多数派から少数派に転ずる。いや、と言うよりも、従来リフレ派は少数派だったのだ。実際には、審議委員まで入れて合計3人にとどまる。それでも政策の変化の関心は副総裁に集まった。

植田新総裁は、金融緩和の副作用にも触れてはいるが、その解消に向けて、

1.緩和政策をやめるのではなく
2.緩和を円滑に続けるための副作用を軽くするという二つの姿勢を示唆した。

植田新総裁は早い段階で長期金利の政策に修正を加えるであろう。しかし、緩和の持続性向上という位置付けを、基本的には守っていくという姿勢である。

植田新総裁の政治対応に試練

植田新総裁は金融緩和の修正などの問題を前にして、政治との距離感が問われるであろう。「間合い」である。政治と強調しながら、政策の自主性をどう確保するか、政権と官僚とどう付き合うか、これが学者出身者のアキレス腱にならなければいいがと願う。

日銀は、なぜか1983年に東京市場に上場した。そして財務省は55%株主である。したがって、上場会社の見方からすれば、財務省の子会社ということになる。しかし、中央銀行の独立性は担保されていないが、建前としては通っている。

中央銀行総裁が、行政の長の総理大臣がこれを決め、立法の府である国会がこれを承認して就任する。その国会での聴取での植田氏のやり取りは、非常に手堅い受け答えだったと感じ、安堵感を得た。これは筆者だけではないだろう。他の人もそうだと思う。理論と実務に精通する人だ。

彼に不得手な点があるとすれば、政治との調整経験の乏しさであろう。これは今までは副総裁の雨宮氏らが担ってきた。98年に日銀の独立性を高めた日銀法が施行されてから、日銀と政治の関係は、円高やデフレ対応を巡って、大きく揺れ続けてきた。

98年の新日銀法が施行されてから、01年3月には、前人未到の領域だった量的緩和政策の導入を迫られた。速水元総裁は右往左往した。政府が再考を求める中で、速水元総裁は、ゼロ金利の解除を強行して、政府との対立を決定的にして、日本を不幸に導いた点では三重野総裁に次ぐ重罪人だ。

後任の福井元総裁は、産業界にも金融界にも理解があり、機動的な追加緩和で政府を協調演出に努めた。「デフレが終わるまでは、金融緩和は止めません」などと言って、株式市場にも受けたが、2006年に量的緩和を解除した。これは早すぎた。当時の安倍元官房長官は、日銀に深い不信感を覚えて、金融緩和を柱に据えるアベノミクスの「第一の矢」には「大胆な」と敢えて付け加えた。

福井総裁の後任人事では政争を招いたが、結局は白川方明氏と言う学者肌の人が、総裁に就き、民主党政権の下で苦労した。

黒田総裁は2年で2%の約束を果たせず、黒田日銀は修正を繰り返して、異次元緩和の延命を図った。今後の植田日銀に、多少不得手な点があるとすれば、政治との適正な距離感であろう。日銀総裁は政治が決めて、国会の承認で成立する。そして、株式会社としては財務省の子会社である。植田日銀は政治との距離感をどう取るか、市場との対話能力とともに、政治との調整能力が試されることになるだろう。

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